湯船の残り湯を運ぶ
道具を買えばいいのに、アナログにやってることってある。たとえば鉛筆削りを使わずにカッターで削るとか、そういうの。
それが「好き」だから敢えてそうしているならいいよね、本人がその時間を楽しんでいるのだから。
昔付き合った人が、彫刻に興味のある人だった。
ある日、ついに彫刻刀セットを買った。部屋中の鉛筆を削ったらしく、机の鉛筆立てには鋭利に削られたもの、やや丸く削られたものなど、楽しみの余韻が漂っていた。
手持ちの鉛筆をすべて削り終えてしまった彼は「なにか削るものない?」と尋ねてきた。私はメイクポーチに入っていたアイブロウペンシルを差し出したな、そういえば。
・・・こんなことを思い出したのは、朝の洗濯のせい。
少し前からお風呂の残り湯を洗濯に使っている。
実家で暮らしていた頃は、当然のことだと思っていたけれど、東京に出てきてからそうしたことはなかった。
だけど最近、水をじゃぶじゃぶ使うことに気が引けて残り湯を使うことにした。
でも洗濯機に「残り湯を使う」なんていうボタンはない。調べてみると、たいていは洗濯槽に水が入った状態で運転開始すればいいらしい。
洗濯機を回す朝、私は湯船から残り湯を運ぶことになった。
手桶で残り湯をすくう。運ぶ間に床にこぼれてしまわないよう洗面器でガードしながら洗濯機へ。
右手に手桶、左手に洗面器。手桶がコーヒーカップなら、洗面器はソーサーだ。
なんともダサい中腰の体勢で、そろりそろり。だいたい50回。
地味で地道。そんな動作の繰り返し。
別に「好き」でやってるわけじゃない。朝から腕は疲れるし、足も濡れる。
でも給水ホースを買うほどではない気がする。ホースを買ったって、それを取り付けて動かして外して収納する…という工程はあるわけだし。
洗濯のたび、無になりながら動きを繰り返す。
こんなことしてどのくらいエコになるんだろうか
水道代も100円変わればいい方かな
でも昔の人は洗濯板で洗濯してたんだもんな
それと比べたらおこがましいほど便利だな
ところが最近、ちょっとした変化が訪れてしまった。
残り湯をせっせと洗濯機へ運んでいると「生活している」という実感がわいてきて、なんだか悪くない。
機洗濯機という文明の利器の前で、生活のために体を動かすこと。
湯船の湯をすくいながら、昨夜ここで娘とした会話をもう一度掬い上げること。
もしかしたら敢えて「好き」でやってる方に、なってきたかもしれない!
(2021.7.16 fri)
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