パリ五輪開会式一部に「ポリコレ版の最後の晩餐」と思われる演出があった件について
前置きとして、これから書く内容は「外観」のみに視点を絞った場合、日本人からどう見えるのかという心情を考えるために構成しています。
外観のみに着目した場合、どれだけ不快感を覚えたとしても「寛容」になることの本質がどこにあるのか、これを目的にしており他意はありません。
パリ五輪開会式で一部の演出がSNSを中心に物議に
誰もが一度は目にしたことがあると思われる「最後の晩餐(さいごのばんさん)」キリスト教を題材にした宗教絵画で、12人の弟子(内1人は裏切り者)とイエス・キリストが描かれています。
この最後の会食後にイエス・キリストは処刑される背景があり、キリスト教にとっても重要な絵画として扱われており、どのような意図であれこの構図を皮肉ってライン越えをするような行為はキリスト教に対して一定の反感を買うことになると思われます。
パリ五輪開会式で最後の晩餐に見える演出があったのですが、そこに並ぶ12人の弟子とイエス・キリストを連想させる配置にポリコレに配慮した人物や衣装を身にまとった人々が並んだことで大きな反響を呼んでいます。
日本でも一部LGBTQ活動家が熱心に普及活動をしていることを知っている人であれば、この演出を見ただけでどういったどういった演出なのかを理解することが出来ると思いますが、よくわからないという方に簡単に説明すると性別や性的志向(レズビアンやゲイセクシャル、性同一性障害など)を含めた多様性を尊重しましょうという考え方が世界的に広まりつつあります。
こういった多様性をもった人たちを最後の晩餐に見える演出で登場させたことで、キリスト教への侮辱ととらえたり、純粋に不快感を感じる人々がSNS上を中心に多くお気持ち表現を発信する流れになり、パリ五輪開会式中から該当シーンがトレンド入りする事態となりました。
現在では同性愛に対してキリスト教も新しい考え方を取り入れ始めていますが、キリスト教において伝統的な考えでは同性愛は罪とされている考えがあることを知っておく必要があります。
こういった背景があることも踏まえて、パリ五輪開会式で最後の晩餐を彷彿とさせるLGBTQに配慮したドラァグクイーンの演出が侮辱的だと感じる人が出てくるのは自然なことだと思われます。
また、キリスト教やLGBTQについて知識がない人々にとっては美醜感の視点から日常的に目にすることのない風貌の人々がオリンピックという世界的な舞台の開会式に登場するというのは違和感や不快感を感じることは自然な心情ではないでしょうか。
しかし、こういった問題では演出の外観が似ていても思想的背景が読み取れない場合、同じような反応になるのかが重要だと考えています。
例として構成メンバーを日本人かつ思想的背景のないなじみのある人物に置き換えた場合、どういった印象を持つでしょうか。
パリ五輪開会式で最後の晩餐を彷彿とさせる演出を日本風に置き換えてみる
まず、12人の弟子の例として以下の人物で構成してみます。
「ヤマンバギャル(女性モデル)」(衣装を貫頭衣(かんとうい)に寄せたモノとヤマンバメイク)
「なかやまきんにくん」氏(ギャル男メイクに衣装は貫頭衣)
「ケイン・コスギ」氏(ギャル男メイクに衣装は貫頭衣)
そして、中央のイエス・キリストを「渡辺直美」氏(卑弥呼の衣装)
また、演出では裸体で全身を青く塗った人物が登場してします。青く塗ることになんらかのメッセージ性があるため、染色なしパンツ一枚の裸体か演出上統一感を出すため白塗りにヤマトタケルの衣装で登場する人物としてシンガーソングライターの「岡崎体育」氏へ置き換えます。
上記のメンバーとメイク・衣装であればパリ五輪開会式中にあった最後の晩餐を彷彿とさせる演出が日本風にアレンジされつつ、外観から感じる印象は似たものになると推察されると思われます。
※子役についてもなんらかのメッセージ性があるため除外します。
再度書きますが、あくまでも外観のみに焦点をあわせています。
この構成でも構図が同じであれば多くの人が最後の晩餐を連想すると思われます。
日本風の構成でどのような心情を抱くかを見つめたとき、自身の本質的な価値観が理解しやすくなると考えています。
オリンピック公式Xでは、この演出について以下のようにポストしています。
この点についても、「日本のギャル文化と弥生時代における邪馬台国の融和を表現した」と説明することが出来るよう構成してあります。
パリ五輪の演出に嫌悪感や不快感を抱いている方のなかで、例に出した日本版から受け取る印象が嫌悪感や不快感ではなく、演出として妥当なのかという視点になっている方は、パリ五輪の当該演出のみに問題意識があるのではなく、LGBTQなどに対して悪い心情を持っているのではないでしょうか。
私はどのようなことも、たんに「不快感を覚えたので不適切だ」と考えることをやめてしまうと自身の考えが何に起因しているのか見失ってしまうことになるため、違った視点から見つめてなおすことは重要であると考えています。
なお、私自身はLGBTQの方々を理解することは重要であると考えていますが、LGBTQ関連の活動家に対しては活動の多くが不適切だと思っているので今回の炎上した最後の晩差を彷彿とさせるポリコレ演出にはたいへん問題があると感じています。
ヘビメタバンド「Gojira(ゴジラ)」がマリー・アントワネットの生首が並ぶ演出も波紋を呼ぶ
パリ中心部のセーヌ川を舞台にフランスのヘビメタバンドとオペラ歌手が「マリー・アントワネットの生首を抱えた」演出とともに、血を連想させる過激なパフォーマンスもありました。
オリンピックの開会式にこのような過激なパフォーマンスがふさわしいのかSNS上を中心に賛否両論が出ています。
こちらについては、背景を無視して外観のみに絞った場合、「本能寺を舞台に日本人メタルバンド「BABYMETAL」が「信長の首を弥助が抱えた」演出とともに本能寺が燃えているように見えるパフォーマンスをしている」が分かりやすいかもしれません。
※本能寺から信長の首を弥助が運び出したかは諸説あり
こちらの演出に関しては、歴史的背景よりもオリンピックというスポーツの祭典で、世界に向けて過激な表現をすることが妥当なのかはよく考えなければいけないように感じます。
特に子どもたちも見ることになりますし、グロテクスな印象をあたえる表現には注意が必要なのではないでしょうか。
たんにクオリティが低かったり、意味がよくわからない演出であれば開催国の諸事情、伝えたい文化や前衛的な表現なのかな?で賛否両論が出たとしてもクオリティの問題であるため害はありません。
世界が注目しているオリンピックの開会式で炎上することは、代表選手が炎上するのとはわけが違う
オリンピックの開会式で炎上しSNSのトレンドを汚染してしまうことは、代表選手たちの競い合いをSNSで観測するさいに目に入ってしまい、気分のいいものではありません。
代表選手の試合内容や発言で炎上することはありますが、あくまで代表選手たちに注目があつまっているからであり、こういった舞台にはつきものです。しかし、開会式が炎上するというのは演出内容を精査していれば回避可能です。
オリンピックを見ている多くの人にとって、主役は代表選手たちであって、開催国ではないのではないでしょうか。
今後のオリンピックが開催国の都合で炎上するようなことがないことを祈るばかりです。