【読書メモ】だからもう、眠らせてほしい
緩和ケアと安楽死と
「だらかもう、眠らせてほしい」
私が平日の毎朝6時30分頃に必ず考えていることだが、当然、そういう意味ではない。
本書は、川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンターの腫瘍内科/緩和ケア内科医長をされている西智弘先生が、先生のもとを訪れた2人の末期のがん患者ーひとりは出会いから安楽死を望み、緩和ケア病棟で眠りながら最期を迎えた吉田ユカ、もうひとりは最初は『もう無理、ってなったら安楽死もいい』と言いながら闘病を続け、周囲の人びととのつながりにすべてをゆだねながら、最後は『先生、あれ(安楽死)、なしにしてくださいね』と言いながら穏やかに亡くなったYさんーの話を軸に、安楽死をめぐる議論に関わる著名人と対談していく…エッセイ?だ。安楽死について積極的に発信をする写真家でがん患者の幡野広志氏、『安楽死を遂げた日本人』(小学館)という本を上梓して関係者に衝撃を与えた宮下洋一氏、自殺対策支援や依存症治療に造詣の深い精神科医の松本俊彦先生、神戸で在宅緩和ケア医をされている新城拓也先生と、西先生との対談が一つひとつ重い…
初夏の週末に、中年女子がなんちゅう本を読んどるねん、と思うかもしれないし、私自身、途中からそんな気持ちになってきた。でも、今から10年近く前、ALS患者の支給量保障を求める行政訴訟に関わった縁と「若気の至り」で、一時期「安楽死反対派の論陣張ってる」みたいなことになったことから、このテーマは切り離せないものになっている。当時、よそから頼まれるままに原稿を書き、講演をしていたころは、私が見ていたものは重度障害者や神経難病の方ばかりだった。「人工呼吸器をつけて生きるか、つけずに亡くなるか」という究極の選択が迫られる中、尊厳死だの安楽死だのといった選択肢が保障されると、「死への同調圧力」の強いこの国では、堰を切ったようにそっちへ流れてしまう、だから安楽死はダメなんだ…
と、思っていた。
やだ、ホンマに8年も前やないか。恥ずかしい。
しかしその後、私は自分自身が副腎クリーゼという重篤な発作を起こし、1~2年に1回は緊急搬送をされる身体となる。「このまま治らないなら殺してくれ」と思っちゃうくらいの嘔吐が、主な症状。15分に1回のペースで嘔吐である。そこで思った。
「この状況、介護保障があってもどうしようもないんですけど。」
まぁ、私の場合はHydrocortisoneを点滴したらそのうちこの世に帰ってこれるので、直ちに「もう眠らせて」とならないが、仮に神経難病ではなく、がんなどの痛みや嘔吐といった「病苦」著しい疾患で終末期を迎えた場合、私はあの頃のように元気よく「安楽死は反対です!」と言えるのか、という気持ちになってきた。
そうすると、西先生や新城先生のような先生による緩和ケアに関する発信に興味を覚えるようになった。興味を覚えすぎて、現在保健所で勤めているのをいいことに、どう考えても弁護士向けではない、医療保健職向けの緩和ケアやACPの研修に潜り込むなど… だいぶ妙な弁護士という自覚はある。
この本は、そうして手を出した本の中で最も重く、難しく、私の言葉で要約するには全然能力が足りない。ただ、もしACP(Advance Care Planning)に踏み込もうとする福祉職や法律職がこのnoteを読んでくれていたら、ぜひ一度この本を手に取って一緒に泥沼にはまってほしいと切に思う。
安楽死について賛成・反対という議論から降りる
と、いう表現は、自ら多発性骨髄腫というがん当事者である幡野広志氏の言葉だが、この本に出てくる著名人は、全体的にそのような旗色鮮明な議論はしない。それぞれ、死に至る過程は十人十色で人の数だけ意思決定があり、その人にとって必要でも制度として必要かどうかは話がまた違ってくるなど、単一の回答を得ることができない。立場性を鮮明にさせられてしまうと、途端に話がしんどくなるので、「降りる」という前提があるだけで急に楽になる気がした。ただ、「がんと分かったらその後の医療費とか看護がしんどいだろうからすぐ死にたい」みたいに、金を絡ませた短絡的な議論だけは勘弁してほしい。人の生きざまはそんなに簡単じゃない。
ACP〜それは対話〜
本書ではそんな単語はほぼ出てこないのだけど、吉田ユカとYさんが、西先生のもとを訪れてから亡くなるまでの経過は、ACP(Advance Care Planning)のプロセスだろうと思う。ACPとは、「今後の治療・療養について患者・家族と医療従事者があらかじめ話し合う自発的なプロセス」のことで、最近終活だのエンディングノートだのが流行する中、人生の最終段階に何を考え、どう過ごすか、逃げずに話そうよ、という考え方である。
ただ、どうしても話が「胃ろうつけますか」「人工呼吸器つけますか」「手術しますかしませんか」「いつから鎮静しますか」に集中する傾向が強い。どうやって本人とそういう話をするか。どうやって書面に残すのか。そんな話を聞いていると、みんな免責されたいんだな…という気持ちにしかならない。これも、「ALSへの介護支給量保障事件から見ると尊厳死・安楽死には反対一択」だったのと同様、高齢福祉の立場から見るとそれでもあまり違和感なく受け入れられてしまうのだろうと思う。しかし、本書に登場する2人の若いがん患者を前にして、同じ議論になるのだろうか。そして、若いがん患者と高齢者、どこに分水嶺があるんだろう。というのも、私の問題意識。
本書の吉田ユカさんも、Yさんも、外来のたびに考えていることは揺れ動く。総論では「安楽死を」と言いつつも、2週間後、1か月後の予定を楽しみにしながら、今日のしんどさに耐えている。その都度、家族や友人や、主治医、緩和ケアチームとの「対話」をくり返しながら、彼らの気持ちは時々刻々とぶんぶん揺れ動く。その「対話」と「物語」をまわりの人びとと共有しながら、意思は決まる。その人のACPを語るには、少なくとも、この連続性と時間的幅を持った「物語」の登場人物として参加できる人である必要があるように思う。
この営みに、法律家に何ができるかを考えたとき、それは登場人物として参加することでは決してないように思う。私には無理だ。できることがあるとすれば、本人が最期のときを迎えるまで、本人と関係者が「対話」に集中できるよう、法的な懸念事項をつぶすことに尽きるのではないかなぁ、という気がしている。そのへんが、法の弁えというか、なんというか。
格差
でも、こんなことを考えれるのも、2つのケースが「西先生のもとでのことだから」と幡野氏は言う。一般的に緩和ケアと言った場合、治療方針は医師の裁量によるところが大きくて、本当に患者本位で考えられる緩和ケア医にめぐり合えるかどうかは、本人の情報収集能力、コミュニケーション能力、財力、そして運に左右されるところが大きすぎるようだ。そこまで緩和ケアに期待を寄せることも躊躇する。なので、「緩和ケアが発展すれば安楽死は不要」と単純に言うこともできないのだという。発展、ったって、全国一律に、患者が望む通りの発展を遂げるとも限らないし。私も、いい緩和ケア医見つけなきゃだ。
…障害のある人、病人の法律課題を、本人意思にとことん沿うて事件処理してくれる弁護士が見つからないのと一緒かもしれない。