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3本目のブログ~別に伝わらなくてもいいものを書くために~

身柄を隠す必要もないと思うのですが、とりあえずペンネームで書き始めてみます。

今、これを病室から書いているあたり、私らしいというかなんというか。

初代にぶんのいち、二代目にぶんのいち×2を経て、使い勝手の関係からnoteを使ってみることにしました。でも、職業柄お金はいただけないので、基本的に書き流すスタイルは今までどおり。

ちなみに、初代は「法科大学院1期生が、紆余曲折を経て三振目で合格する物語」として希少価値があるような気がします。。

しきり直しの2つのきっかけ

『書く』ということと向き合ってみたくなったから…でしょうか。2020年に入ってから、私と『書く』という行為について、2つのちょっとした出来事がありました。

1つは、相談に乗っていただいている中で。私は、難病の当事者だし、弁護士だし、公務員もしているという、結構珍しいところで仕事している関係で、いつか私がみた景色を取りまとめてみたいという思いをずっと持っていました。そのあたりの相談をしている中で、「(私が)読み手を意識せずにリミッターを解除したものを読みたい」と言われ、考え込んでしまいました。私は、初代「にぶんのいち」から、必ず「想定読者」を念頭に置いて文章を書いてきました。「伝える」ツールである以上、伝わらないものを書くということは、私にとって意味のないことだったからです。また、伝えたいことが伝わる風景をイメージすることを、書くことの原動力にしていた気がします。

ところが、私が読み手を意識しすぎるあまり、封じているものもあるのではないかという話になり、まぁ、たしかにそうかもしれんなぁ、と。

そう言われて「どないせぇっちゅーねん」と思った同じ日に、Facebookの古い友人から、もう、何年ぶりかわからないくらいのメッセージをいただきました。詳細は伏せますが、私のFacebookで何気なく書いた投稿に勇気づけられた、というもの。

「あまたある投稿の中で、あなたのはとても楽しみに拝見しています」

それまで、「いいね」その他のリアクションもほぼなくて、体調が悪いのかな、とかアカウントだけ作って離れちゃった?とか、そう思っていた方からの思いがけないメッセージでした。

「自分語りは(あんまり)しない」 

あと、私は、「人の生きざまから勇気をもらう」というよくある話はだいたいキレイごとだ、と信じて疑わなかったところ、ひょっとしてそうでもないのかもしれない、という気にもなりました。私の「書く」にリミッターがあるとすれば、「私の話は、『あの人は私と違う』と思われこそすれ、ポジティブな影響を与えるはずがないし、文字にした瞬間に陳腐になる」というポリシーだと思います。なので、私は、私の当事者性を、よくある闘病記という「自分語り」の形ではなく、元気な人では持ちえない視点や法解釈だったり職業選択だったりを通じ、社会に還元することをかなり強く意識しているように思います。とはいえ、私と同じ病気の人の中には医者になった人もいるようですし、ALSでも物理学者しているスティーブン・ホーキングさんとかいましたので、小児がんサバイバーかつ下垂体機能がイカれてて弁護士、というのも大したことないのかもしれない。。

ただ、Facebookは基本的に「顔と名前が一致している人縛り」をかけているためにめちゃくちゃ油断しており、頻繁にリミッターを解除したものを垂れ流している自覚があります。そういうところを捕捉され、「楽しみに拝見している」と言われてしまうと、たしかに(いい意味で)自分で引いた設計図通りに伝わってないこともあるんだなと感動した次第です(小並感)。

というわけで、「リミッターを解除」がどういうものかわかりませんが、そういう腹のくくったものを書き残したくて、その媒体も含めて改めて立ち上げてみたところです。

それって、「炎上上等」っていう意味じゃないの…?

いや、炎上はしたくない。そんな腹はくくってない。炎上したくないけど、持っている身分が複雑すぎて可燃性は高いから、気をつけます。

まずは、これ、病室から書いている、という点が大問題でして、明日になったら『書く』どころじゃなくて1回ぽっきりで終わってしまう、なんてこともなくはない。なんでこんな大惨事になっているかについてはこちらを参照。

難病と、法律と、行政の谷間より。私らしく、点滴ポールに誓う(笑)

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