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【読書メモ】もうあかんわ日記
父は他界、弟はダウン症、母は車いすユーザー、からのコロナ禍に生死をさまよう大手術。間に祖父の葬式が挟まって、ついには祖母がタイムスリップ。-残された長女(作家)にすべてのタスクは託された。
人生はひとりで抱え込めば悲劇だが、人に語って笑わせれば喜劇だ
という帯の一節がすべてを表しており、とにかく身に降りかかった困難ごとをひとつ残らずとりあえず笑い飛ばしておこう、という気合いに満ちた一冊。
この本の元になったnoteも時々読んでおり、お母様が何やら大変なことになっていることを心配・・・しなければならなかったんだろうが、文体がカジュアルすぎて、お母様が入院されるくだりを読んでいる時点からなんとなく、「でも最終的にきっと大丈夫なんだろう」と思っていた。。ごめんなさい。
私はたぶん感動のツボがおかしい
これからこの本を読みながら、私の中でキャーキャー言っていた部分の紹介をするが、たぶん筆者の意図するところと全然違うところにツボを感じている自信がある… ちゃんとこの本の内容が知りたい人は、ぜひ本屋で手に取ってほしい。神戸の方ということもあり、兵庫県内ではだいたいの書店に置いているので。
本書は、昔大動脈解離を発症して命は取りとめたものの、下半身にまひが残って車いすユーザーになった筆者のお母様が、感染症心内膜炎というこれまた一歩間違えると死んでしまう病気で大手術を受けるところから始まる。が、冒頭の通り、きっちり生還してこられる。
ここで私がときめいたのが、お母様が入院している病院が、私がこの夏(というかここ数年毎年夏に入院沙汰を起こしている)入院する病院と同じ、ということだ。
お母様ったら、2か月の入院期間のすべてを個室にされていたそうだが、その金額も熟知している私としては「・・・す、すごい、私、1週間の入院でも毎日ドキドキしたのに」と、そこで感動してしまった。昨年2月、迷走神経鞘腫の手術を受けた後、予後が全然芳しくなかったのに無理やり退院をしてしまった理由の一つが、「個室代が心配で仕方がなかったから」だ。ちなみに、ここ5年ほど、本当に毎年のように夏の間に1週間~10日の入院をしてる。昨年なんか、とうとう治療目的ではない検査入院で1週間も入院してしまった。これが金のかかることかかること。同じお金払ってグランピングとかしたい。切実に旅行に使いたい。これ、そのまま旅行にあてたら相当いいところ泊まれると思う。毎年非常に悔しい…
また、「入院の際にもっていくといいもの」について「ふりかけ」とあったとことに首がもげそうなほど縦に振ってしまった。今回はふりかけ持っていこうかな… あ、全身麻酔すると、しばらく粥になるんだけど、ほぼ塩気のない粥がどんぶりに出てくるので、ふりかけも行けれど岩海苔とかでもいいかもしんない。普通食になったら、ご飯の量を減らしてもらうこともできたはずなので、私はあまり気にならなくなった。たしかに、デフォルトのご飯だと多い…ていうかお母様、ご飯減らしてもらえてなかった…?
【参考】昨年2月の私↓↓
また、コロナ禍での面会制限の様子も参考になる。私は、「普段の面会はあかんにしても、手術後の説明くらいは家族も来れるやろ」と踏んでいたのだけど、まったく甘かったようだ。この本によると、病院の救急へ運ばれ、緊急入院が決まってから退院してくるまで、筆者とお母様は一切会えていない。命がけの手術の時も、その様子はあとで電話で伝えられている。
・・・ま、マジか・・・
そりゃそうだ。これだけ「看取り」まで会えないことがプチ社会問題化しているのだ、手術ごときで会えるわけがない。まして、私など、「コロナが感染爆発したら、後回しね。あんたの病気は命にかかわることじゃないし、良性だから」と言われている私の手術など、いちいち家族が来ていたら収拾がつかないだろう。
でも、私の場合、私も家族も手術時にはワクチン2回接種終わってるんだけど、どうだろう。…アカン気がする。うう、怖い…
スイミングスクールに行けない弟
この、2021年3月10日から4月15日までの37日分の日記の中にたびたび登場するエピソードが、「ダウン症の弟の入会を認めてくれるスイミングスクールがない」という話。弟が子どものころは、発達の差がそれほど大きくない子どものスイミングスクールに問題なく通えていたのに、成人になると「知的障害があって…」の一言でお断りされる、ということらしい。自宅から1時間かかる福祉用プールであれば受け入れ可能だが、必ず付き添いがいなければならない。筆者にも仕事があるため、いつも都合をつけて付き添えるわけではない。そもそも、自宅から1時間もかかる時点で弟が生きたいと思うかどうかが相当微妙だ。でも、弟はプールが大好きだ。大好きなプールにいつでも行けるようにするにはどうすればいいか。そういう話がところどころ挿入される。
一度はスイミングスクールへの入会を諦めていた筆者きょうだいだが、弟の健康診断で肥満を指摘されたことから、それこそ「必死のパッチで」スイミングスクールとの交渉が始まる。最終的に、その説明が奏功し、入会当初はマンツーマンのレッスンコースを利用してジムに慣れることを条件に利用できることになった、というもの。
こうした話を読むたびに、私は心の底から反省する。たぶん、私との付き合いが長い方は、障害者運動に関係している方も多いだろうから、脊髄反射的にあの法律が思い浮かぶはず。
そう、障害者差別解消法。
しかも、知的障害と聞いただけで入会を断っている、というのだからそれは公的機関に限らず事業者である限り禁止されている、「不当な差別的取扱い」だ。と、ここまでは秒で思考が走る。そして、「おい、スイミングスクール、何しとんねん」というところへ行きついてしまう。すこぶる物騒だ。筆者は、ダウン症の弟とずっと一緒に成長してきたこともあるし、なによりライターとして活動する前には、株式会社ミライロという、ユニバーサルデザインやインクルーシブ社会に関する研修等を企画する会社の広報を担当しておられる。そうすると、筆者も障害者差別解消法が頭をよぎったのではないかと思う。
ただ、ここで「おい、なにしとんねん」と憤ったところで弟がスイミングスクールに通えるようになるかと言うと、おそらくそうはならない。相手があることだし、その相手が知的障害をただ「知らないだけ」ということも、よくわかっている。理屈としては法があるとしても、結局はどうやって相手の理解を得るかであり、その根本は、最初は法律ではなく、コミュニケーションだ。「プールに通うことができる」という結論が得られればそれでいい、と考えると、ここでわざわざスイミングスクールに、「それは障害者差別ですよ」とあえて指摘する意義がわからなくなる。
頭ではわかっていても、私は脊髄反射的に物騒なことを考えてしまう私は、こういうときにどうすればいいのか、毎回大反省をする。
不思議な装丁
内容もさることながら、この本はなかなか不思議だ。
最初のページは白い紙だったのに、徐々に黄色くなって最終ページは完璧に黄色。クマのプーさんばりの黄色。まぁ、「黄色」というチョイスは「幸せの黄色いハンカチ」的な意味合いなのかなと思わなくもないけど、なぜ冒頭ページは白かったんだろう。グラデーションに黄色になっていくんだろう。
「読者はがき」買い
「ジャケ買い」という単語があるけれど、この本の場合、「読者はがき」買いだった。
なんかかわいくない? 読者はがきにここまで気合い入れている本を見たことがない。
しかも明石市の出版社とのことなので、余計にタコが愛しく思える。住所的に、明石駅から市役所へ行く途中にある会社なんじゃないかという気がするので、今度のぞいてみようっと。