【読書メモ】弁護士の私の使い方ー社会的排除と法システムー
私は、本をポチることも多いけど、できたら一面の本棚に囲まれて買いたいタイプ。それほど大きくない本屋でも、放っておいたら1時間くらいうろうろできる。本棚をぼーっと見ていると、「なんじゃそりゃ」みたいな偶然の出会いがある。Amazonも、次から次から興味のありそうな本を勧めてきてくれるけど、本棚を回るのとは全然違うの、なんでだろう。
そうやって見つけたのがこれ。社会保障法の棚を見ていたら、隣の基礎法の棚に鎮座していた。
本書のテーマは、「法」が持つ社会的機能について、とりわけ社会的弱者の存在が顕在化している今日において、「法」は社会的包摂機能を持ちうるのか(難しい)。もうちょっと具体的にすると、生活困窮者、高齢者、障害者、DV被害にあう女性、出所者などなどの社会的排除のただなかにある人は、大なり小なり法的救済が必要な類型の人のはずで、法は社会的包摂に向けて役割を果たせそうなのに、実際は当事者に活用されない。知らない、ということもあるのだろうが、知っていても活用しない。この、「知っていること」と「活用すること」の乖離を軽減させる方策を考えることが喫緊の課題だ、という問題意識である。ちなみに、法システムの存在と、その可能性のひとつとして6月に刊行した私の本のうち、ケース10「弁護士はどこにいるのか」で書いた、「地域に向けて法教育」を深めてくれそうな目次がならんている。各章が「なぜそれをここで取り上げるのか」というロジックはわかりにくいところもあるものの、社会的排除の状況にあるものへの司法アクセス向上のヒントや、相談支援の処"法"箋を出版した目的、方向性が支持されているようで、ファンレターを書きたい気持ちになった。
しかしまた、高額紙幣が飛んでいくお値段でどうしようか悩むところ… お給料が払われるまで、ためらってしまった。いやしかし最近、本に費やす金額のハードルが下がってきたな… マイナンバーカードがらみでどうやら15,000円くらいもらえそうなんだけど、これ、全部本に消えるね!(断言)
冒頭、親の話をされて動揺する
まず、社会的排除がどのように生じるかについて考察を重ねている。具体的場面における訴外の背景として、①ホームレス化の背景における複合的排除状態、②超高齢社会における疎外状況、③社会構造の変容に基づく人間関係の喪失の3点があげられている。
このうち、②超高齢社会における疎外状況では、高齢者において疎外が生じるメカニズムとして、こんなことが書かれている。
(高齢化率の上昇が続く中で)問題になってくるのは、年齢を重ねることに伴う人間関係の喪失である。
人間関係を結ぶ1つの重要な舞台として雇用システムにおける場=職場を位置付けてきた場合、・・・雇用システムからの排除ないし退出は、人間関係を結ぶ舞台の新たな設置を当事者に余儀なくさせ、新たな関係性を結べない人々は人的資本を徐々に喪失し、社会関係資本から疎外されやすい状況に陥る可能性に直面することになる。
・・・なんか思いあたる節があるぞ。めちゃくちゃあるぞ。これ、私の親の話じゃあるまいか。このコロナ禍なので、頻繁に帰ってはいないけれど、特に父親は数年前から事業をたたんでいるので話し相手が母親しかいない様子は伝わってきている。まぁ、もともと私が育った地域は古い土地柄で、いわゆる「村八分」的な感覚が普通に残っているところだった。私たちは、そんな事情を知らずに外様として入ってしまい、以来30年近く住み続けていた。そんな土地柄も拍車をかけ、それほど地域に人間関係があるわけでもない。そんな場合、仕事辞めた翌日から孤立してしまう。
最近、いろいろな分野で「居場所」を地域の中に作ろう、という掛け声がすごくて、正直そんなもの人為的に作るものなのか…?と思ったこともあるけれど、自然発生的にできるのを待っていては、孤立する高齢者だらけになるのだろう。
高齢者はまだいい。“官製”居場所があちこちにあるから。たとえば私の場合、体調が悪化して仕事を辞めてしまったら、いったいどこに帰属先があるんだろう。ていうか、司法試験受験生をしている数年の浪人期間ですら、帰属先がなくて怖くて仕方がなかった私が正気でいられる気がしねぇ・・・ 働くのが難しい難病者たちはどうしているんだろう。
排除、ってさ・・・ あるよね・・・ あるある。私も、仕事辞めた瞬間に「包摂システム」から吹っ飛ばされるよ。
ケース10と同じこと書いてある(という曲解)
法教育のくだりで、児童養護施設をまわって消費者教育をする、という全国青年司法書士協議会の取組みが紹介されている。この取り組み、法教育の対象が「学校ではない」という点も珍しいのだが、それ以上の副次的効果として、実践者が第三者の大人として位置づけられ実践が展開されていることに重要な意味がある、と指摘されている。
すなわち、人間関係の広がりが限定される傾向にある児童養護施設の子どもたちにとって、学校関係者でもなく施設の職員でもない第三者の大人である法律専門職が来訪するということ自体が、法的存在に対する子供たちの認識に変化を促すことにつながり、将来的な人間関係を新たに広げるための契機になることが予測される
弁護士は、法教育委員会が学校に向けて推進することはあっても、学校以外の組織に「法教育として」アプローチをかけることはほぼないんじゃないだろうか。ただ、「相談支援の処"法"箋」でも触れたように、研修講師として地域の勉強会へ派遣することはやっている(有償だけど)し、市民後見人養成講座とかであれば法律科目は数コマ担当することはよくある。この本では、児童養護施設に対する全青司の取組みが紹介されているが、同様のことはいろいろな場面でありうる。民生委員、人権擁護委員、高齢者のサロン、どこにでも出かけていき、研修する。すると必ず即席相談会が始まる。何を相談し、弁護士に何ができるのか、どこからお金がかかるのか、イメージがつく。弁護士も、普通の「人間」であることがわかる(いや、なんか違う生き物と本気で勘違いしている人って結構いるんだって)。 司法アクセスを阻害する心理的障壁がそこで少しでも崩れるなら、少しは排除システムと包摂システムの架橋となる存在に近づけるかもしれない。大人の法教育。
ほら、そんなこと、「ケース10」に書いてるやん?(書いてたよな・・・)そして、子ども以外を対象に法教育をしようと考えるのは、発想としてぶっとんでいるということを突き付けられ、やっぱり私の頭はおかしい(凹)。
「連携」の定義
本書は結局、「断らない相談」とか、国が地域福祉で推進する重層的支援体制整備事業のような話に落ち着いていく。すると、最後は必ず「連携が必要ですよね」という話になる。
いや、それはわかってるねんて。でも「連携」の定義ってどこにも書いてないから、ひどいときには「いっぱいかいぎによんできたら、れんけいだよね」みたいな大惨事になっていることもあるじゃないですか。でも、この本にしっくりくる一文が書いてあった。
属人性を発揮する主体となる専門職同士の警戒意識を取り除き、彼ら自身ががまず互いを社会資源のひとつとして活用していこうとする意識を持つことにより、縦割りの弊害やタコつぼ化を克服していくことが、システム作動要因としての属人性(パーソナリティ)を有効に機能させる上でじゅうようである。
これ、「専門職」を「機関」に置きかえると、おそらくどこの現場でも応用可能な指摘じゃなかろうか。要するに、あるケースを前に複数機関が車座になっているとき、機関相互の警戒意識を取り除き、互いに互いを社会資源として使ってやろう、と思いながら関わる。使ってやるためには、自分に何ができるのか、相手に何ができるのかに加え、自分に何ができないのか、そして相手もなにができないのかまできちんと把握しないと成立しない。自機関だけでなく、全機関のミッションと得意/不得意をある程度理解しなければならない。会議に一緒に参加しているだけでは全然足りない境地だ。
うん。わかるんだけどね。わかるんだけど、うまくいかん。