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母と私の陳述書(後編)

前回の↑に続いての後編です。
なにせ、1時間語っていたので、1回では書ききれなかったのですよ。。

あだ名は”かつら”

退院は、1988年2月末でした。小学校入学まであと1か月ほどしかありません。私は、普通の子が就学前に受けている手続きをマッハでこなしていきました。
まずは就学前の学力検査。3月のギリギリにやりました。
1人だけ遅れていたからか、スペシャルすぎるニードがあったからか、なぜか校長先生と面談する機会がありました。そこで母は校長先生から

「え、養護学校へ行った方がいいのではないか」
「ヘルメットかぶってきてもらえませんか」

と脊髄反射的に言われました。
「それは必要ないと思うんですが・・・」と答えるのですが、「主治医に確認してきてくれ。」と校長は引き下がりません。仕方がないので後日、受診の日に確認すると、「んなもん要らんわ」と笑い飛ばされました。

入学に際しては、かつらがネックになりました。
担任の先生には、

「かつらなして登校したほうがよくないでしょうか? 何かの拍子に脱げてしまったときに、大変なことになるような気がします。」

と言われました。
でも、最初からかつらをつけないということは、6歳女子、丸坊主で入学式に立つ! ということになります。

どう考えても出オチ感がすごい!
冒頭からろくな小学校生活にならない未来しか見えない!

というわけで、ロングのマンガのようなかつらをショートに切って入学式に臨みました。
ところが、どんくさい私はわりと電光石火でやらかします
給食当番のかっぽう着の着脱の際に、かつらをすぽーんと飛ばしてしまったのです。おかげで、小学校生活の開始早々からあだなは「かつら」に決まりました。
結局ろくな小学校生活じゃないやないか!
ああ、担任の言うことを聞いておけば・・・
あ、いやいや、それはそれであだ名は「ハゲ」で決定していたことは間違いないわ。

「かつら」か「ハゲ」かどっちか選べなんて・・・

どっちもどっちすぎるわ・・・

どんくさい一方で、思い切りはよい子だったのと、いつまでも「かつら」と言われるのがしゃらくさかったのと、髪が伸びてくるとちくちくしてかつらが余計に不快だったのとで、夏に入り「スポーツ刈り」と評価できる程度の長さになったところで、私はかつらを豪快に脱ぎ捨ててしまいました。
あれまぁ、たしか十数万円する高価なかつらでしたが、半年ももたずにお役御免になったのでした。

義務教育9年間、高校まで入れて12年間の中で、この小学校1年生の担任の先生が最も私のことを気にかけてくれていたような気がします。母も、「この子は外では戦っているのだから家では100%子どもの味方をしてあげてください」と言われ、それを最後まで子育ての基本理念に据え続けました。
2年生になってもまだ「かつら」と呼んでくる男の子がいたので、参観の日に母は相手の親に事情を説明しました。すると、「うちの子は、そんな人を傷つけるようなことを言う子ではない」・・・と言われてカチンと来たそうだけど、よく考えたら1年生の担任の言葉を双方ともに実践すればそうなるよねぇ。

1年生で同じクラスだった子はいつまでも「かつら」と呼び続けていましたが、私の小学校が1学年5クラスというそこそこのマンモス校だったのと、転勤族が多く住んでいる地域で6年間で半分以上の生徒が入れ替わったことにより、それほど気にはならなくなっていきました。ただ、数少ない6年間残り続けた子は、最後まで「かつら」と呼び続けてきました。

今風にいうと「医療的ケア児」?

結局、手術したことによって出た後遺症は、日常の8割は普通に過ごせるが2割程度は配慮を要するもの、という、めちゃくちゃ中途半端なものでした。服薬も含めて医療的に配慮すべきことが微妙にあるので、今風にいうと軽く「医療的ケア児」と言えるかもしれません。

  1. 中枢性尿崩症のため、チューブタイプの点鼻薬が必要

  2. 視野狭窄障害(正面90度程度しか見えない)のため、座席を見通しの良い後方中央で固定

  3. 体温調節障害のため、特に冬場は低体温にならないよう注意

  4. 2か月に1回程度は通院のため午後早退する

「1」は、4年生ころからは自分で打つようになっていました。
基本的に1日2回、家でさせば学校にいる間に問題が発生することはないのですが、いかんせん点鼻タイプなので花粉症等で鼻がグズグズだと途中で切れます。それまでは、学校にいる間に薬が切れると、母が家から飛んできて点鼻をさして帰っていった・・・とのこと。お、覚えていない。

「3」も地味につらいです。現在ではどちらかというと夏場の方が問題で、ちょっと外気温が高いところで突っ立っているとすぐに37度台まで体温が上がってしまいます。が、このころはまだ夏は夏休みで休めていましたし、今ほど気温も過酷ではなかったので冬の方が大変でした。
「冬なんか着こめばいいじゃないか」と思うかもしれませんが、義務教育期間は「体育」という、衣装を指定されるタイミングがたくさんあるのですよ・・・
当時は半そでにブルマという、無茶苦茶な格好で極寒のグラウンドで体育をさせられていましたので、一番寒い2月あたりには低体温になって1日中震えが止まらなかったりしました。
親は、学校に、「何とかして体育の時間に長袖を着せられないか」と交渉したものの認められず。1人だけ長袖着ていたら、「なんでー、ずるーーい」と言いだす生徒の対応が大変ですもんね。

このほか、学校生活で苦労したことについては、現在現代書館で連載中の「私たちのとうびょうき」にも書きましたので、こちらも参照してください。

とにかく本当に迷惑をかける子

このように、「8割は大丈夫だけど2割で面倒な子」は、宿泊行事の時に本領を発揮します。

子ども会のキャンプ

小学校4年生のとき、子ども会の企画で夏休みのキャンプ行事がありました。当時は、一応は自分で服薬管理をできるようにしていましたが、まだ林間学校へも行ったことがないころでおそらく人生初めての親元を離れての宿泊行事だったのだろうと思います。
で、そこで若干服薬管理をしくじり、現地でギャン泣きをするという大失態をしでかしました。
いや、まことに面目ない。
私としたら黒歴史だったのですが、母には私の知らないところでもっと申し訳ないことが・・・
帰りのバスを迎えに行ったときに、集まっていたママ集団に向けて、私の母に聞こえよがしに「誰よ、こんなややこしい子連れてきたの」とボスママに言われてしまったのでした。
すんません、「おとなのかいだん」を上るために必要な経験だったんだけど、すんませんすんません。

中学校の修学旅行

中学校進学と同時に大阪へ転居していました。
あ、この、転居に伴って主治医がかわる、というのも一苦労するはなしなのですが、これはこれでニッチなのでまた今度。

もう、中学生になったら服薬管理でしくじるなんていう凡ミスはしません。
が。
出発の新大阪駅で頭痛が激しくなり、それ以上行けなくなってしまったのでした。。はぁ、恥ずかしい。
しかたがないので、一人行くのを断念して御堂筋線新大阪駅の駅長室で横になり、迎えに来てもらったのでした。
ところが、こういう頭痛って一晩寝ると治っていることがあり、この時もそうだったんです。そこで、母が校長先生と調整して、新幹線で東京ディズニーランドまで連れていってくれることになりました。
当時、携帯電話もない中で、宿の電話と家の固定電話でやり取りしながら、受け渡しの時間を打合せしてくれて、ディズニーランドで奇跡のドッキングを果たし、1泊だけ参加することができたのでした。

ところが、修学旅行から帰ってきたら、これまたお迎えの保護者が、隣に当の生徒の親がいることも知らず「せっかく東京で病院へ連れていってくれる、って先生が言うてるのに、後から追いかけてきたんやて。ホンマに迷惑かけてからに。」とひそひそ話していた、とのこと。

え?そっち!?
東京で病院に連れていく方が迷惑じゃない!?

いや、ほんま、すんません(居づらい)。
あの頭痛で新幹線に乗って高速移動すること自体が苦痛だったし、私の頭痛は、既往歴のデータもなく初診でどうにかすることなんかできないやつなのよう・・・

宿泊行事での「しくじり」はこの2回だけじゃありません。私が大きくなってからも結構あるのですが、今回は「母の述懐の録取」が趣旨なのでこのへんで。
なんせ、この2回の「宿泊行事でのしくじり」のせいもあり、この後現在に至るまで、よほど気心の知れた人とでないと怖くて旅行に行けません。
いつ旅程変更が必要になるかわかりませんし。
基本的に家族としか行かないのはそのためです。

改めて家族で語るきっかけに

さて、この記事の取材をきっかけに母が語りだした1時間を、私の記憶も交えてまとめてまいりました。
「だれが興味あんねん」と言われそうな話でしたが、母は、自分の語りが文字になったことで非常に喜んでくれました。
また、日経新聞の記事を、現在立派なアラフォーの弟に見せると、「こうして読み返すと、おかんに生かされてたんやなと改めて思う」と感想を寄せてくれました。
当時3歳で、毎日毎日あっちこっちに預けまくられ、あげく
「おねえちゃんがげんきになったらむかえにきてね。ぼくは、おじいちゃんちでまってる。」
という名言を残して神奈川県から親の実家のある大阪へ預けられるなど、それなりに大変だったはずですが、私以上に年少すぎてほとんど覚えていない、とのこと。

日経新聞の連載は4回続きますが、子どもの頃の話は今回だけ。文字数にして決して長い記事ではありませんでしたが、これをきっかけに家族全員で振り返れたことは、貴重な経験でした。

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