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母と私の陳述書(前篇)

日経新聞医療面に取材していただきました

ひょんなことから、日経新聞医療面記者の目に留まり、取材をしていただきました。6月29日から7月20日までの毎週土曜日朝刊で連載されます(全4回)。残念ながら、ネット上では有料会員限定になってしまいますが、1か月のことなので、もしよろしければ「1か月無料キャンペーン」をご利用いただけますと幸いです。
第1回(6月29日)掲載のお話は、私の頭蓋咽頭腫の手術を受けた時のことと、その後、大きくなるのにそれなりにだいぶ苦労したこと(特に学校との関係で・・・)のお話がメインになっています。

原稿確認を母にお願いしたら

さて、第1回の原稿案が送られてきたところ、わずか800字あまりの記事なのに結構な割合で母が出てきます。そこで、母にも中身の確認をお願いしてみました。すると、「ざっくりまとめるとそういう話・・・だけど」と前置きして、当時のことを語りだしたら止まらなくなりました。

語って

語って

(1時間経過)

「・・・と、いういきさつはあるけれど、だいたいはその記事のような感じ。」
と言うのです。
いやいやいやいや、この1時間が非常にもったいなくないか?
ということで、聞いたことをここにまとめてみることにしました。

なお、以下の話は、1987年から1988年という、今から40年近く前の話です。学校を取りまく環境、は、ともかく、医療技術は比較にならないほど発展しています。また、病気に関する医学的知見については、正確性に自信がないのであえて詳細に書かないようにしていますが、記載がある分についてもこの記事を参照にしてはいけません頭蓋咽頭腫や汎下垂体機能障害について現在進行形で悩んでいる方は、難病センターの記事など、きちんとした医学記事を参照してください。

吐き気の多い子

記事(=私の記憶)では、頭痛と車酔いの多い子だったことを契機に頭蓋咽頭腫(ずがいいんとうしゅ)が見つかったことになっていますが、母の記憶によると、私は「寝起きに吐き気」の多い子でした。6歳になるかならないかの子が、胃腸炎でもないのに毎朝吐き気を訴えていたら、そりゃ「?」となりますわな。
あと、よく目をこすっていた。目の周りがガサガサに荒れるほどにこすっていました。今ふりかえると、この時すでに視神経がやられていて、目がかすんでいたのでこすっていたんじゃないかと思われます。

頭蓋咽頭腫よりも前に、「natural born ぜんそく」の子だった私には、ぜんそくのかかりつけ小児科がありました。そこで、手始めにかかりつけの先生に毎朝の吐き気を相談したところ、「ぜんそくの予防薬を飲んでいるから、それのせいなんじゃない?」と言われました。まぁ、たしかに、今もぜんそく関連の薬は吐き気をともなうことが多いので、普通に考えたらそうなるよなぁ。というわけで、予防薬を止めてもらいました。
ところが、数か月たっても、朝の吐き気は変わりません。
再度、小児科の先生に「予防薬を飲まなくなっても吐き気が止まらないんですけど。。やっぱりおかしくないですか?」と訴えると、「えー、いや、そんなん、なんにもないよ?」と言われました。
母は、「なんにもないことないと思うんです、検査だけでもなんとか」と食い下がります。かかりつけの先生はようやく折れました。
「そしたら、お母さんの安心のために大学病院へ1回行ってくるか?」

リアル「ラジエーション・ハウス」

ところが、大学病院の小児内科でも、「いや~、なんもないと思うけど」と言われる塩対応でした。
とはいえ、ですよ。
車で片道30分かかる病院にわざわざ紹介状を持ってきているのだらから、このまま帰れ、はないでしょう。というわけで、
「レントゲンだけでも撮ってく?」

ところが、です。

後日、私が幼稚園へ行っている間に母が検査結果を聞きに行くと、放射線科から返ってきたレポートを見て小児内科の先生は、「ほぉ~、これをよく見つけたな。私じゃわからなかった。・・・もうちょっと検査しようか。」と極めて物騒なことをつぶやくのです。
「小児内科」の医師ではそのレントゲン写真では見落とすようなわずかな石灰化を指摘する放射線科のレポートでした。
(ちなみに、この時の経験は今も生きており、たとえば交通事故などで画像診断勝負になったときは、主治医の他、レポートを書いた放射線科の医師も訪ねるようになりました。)

1か月後にCT検査の予約を入れてもらったのものの、小児内科の医師のつぶやきが物騒すぎて、帰り道、たまらなくなった母は泣きながら父へ電話をかけました。

脳の写真。
レントゲンでは安心できない。
1か月後にCT検査。
「なにかある」場合とは、シャレにならない事態を指す。

すると父は「次の予約日まで待ってられへん。今からもう1回病院へ行け。俺も帰る。」と言って電話を切りました。
ここで母は、幼稚園の園庭でで走り回っている私を捕獲して大学病院の救急へ走りました。
両親と、私と、弟と。4人で救急外来へ通されました。
CTを撮り、診察室へ入ると、シャウカステンにフィルムを差し込んだ医師が「ああ」とつぶやいたかと思うと、私は問答無用で車いすに乗せられ、刺したこともない点滴を刺され、さらに小児内科病棟へ拉致られたのでした。さっきまで園庭で遊んでたのに、大混乱したことは覚えています。
その時両親が見た頭のCT写真には、素人目にもはっきりわかる「あってはならないもの」、ピンポン玉大の白い「丸」が写りこんでいました。
そして医師は両親に向け、
「これは、お母さんが見つけたんだよ」

あまりにも急なことだったので、着の身着のままで救急外来に来てしまったものですから、両親は、入院準備のためにいったん帰宅しました。すると、病院から、「担当医が詳しい説明するので、病院まで帰って来てください」と電話がかかってきました。3歳の弟を社宅のママ友の家へ預け、両親は病院へ取って返したのでした。

当時の私たちの家は神奈川県内にあり、天気のいい日には遠目に富士山が見える場所にありました。
病院へ運転する道中、坂の上にきれいに富士山が見えたそうです。

父はボロボロ泣きながらも(運転危ない)、「富士山がきれいに見えているから、きっと大丈夫」と励まし、

母は「さっき見たシャウカステンの写真だと、あの白い丸はくっきり写っていた。浸潤していない。大丈夫、悪性じゃない。」と励まし、

(一方そのころ、私は私でいきなり病院に一人で置いてけぼりになり、さみしいのとわけが分からないのとで号泣し、)

とにかく二人で励ましあいながら病院へ戻りました。

「ランドセルを背負うことだけ考えましょう」

インフォームドコンセントでは、手術の方法の説明を受けた気がしますが、よく覚えていません。はっきりと覚えているのは、考えられる後遺症を聞いたときのこと。

  • 尿崩症(下垂体性ADH分泌異常症)は必ず残る。

  • それ以外もホルモンの中枢を触るので、どのホルモンがどうなるかわからない。

  • ホルモン以外にも、体温調節障害、学習障害(知的障害)、視覚障害など、本当に何が起きるか、どんな障害が出るかわからない。

  • 悪性か良性か、と言われたら良性だが、腫瘍ができた場所が悪すぎるので悪性と同じように考えてもらって構わない

主治医は、「どうやって大きくなったら・・・」とこぼす母に、「お母さん、今はとにかくランドセルを背負うことだけ考えましょう」と告げ、「手術しなかったらどうなりますか」と聞く父には、「5年生くらいまで・・・かな」と告げるなど、容赦なきインフォームドコンセントとなりました。

実際、言われた後遺症全般を少しずつ残して手術は終了しました。
特に直後は脳の腫れによる視覚障害がひどく、一時期まったく見えていなかったようです。腫瘍は視神経に接着する場所にあります。だから最初、目がボロボロになるほどこすっていたんですね。
本の字を読むこと・・・どころか、病室にかかっているでっかい時計の文字盤が読めなかったり、真横に座っている母に気付かず「お母さん、どこ?」と言ってみたりで、まず「全盲になってしまったのかもしれない」という点で両親に生きた心地をさせませんでした。
入院中に開催された小学校の入学説明会で、「娘さんは、どう?」と聞かれた時には、母は、「盲学校へ通わないといけないかもしれない」と本気でこぼしていました。
私の記憶の中では、その当時「真っ暗」だったわけではなく、物が二重、三重に見える「複視」がひどかったことを覚えています。手を「👍」の形にして指を見ると、折れ曲げた指は人差し指から小指までの4本のはずなのに、10本くらい指が見えいてて、「うゎ、気持ち悪」と思っていました。

剃髪とかつら

冒頭のサムネイルは、医療用かつらをかぶって退院を喜ぶ写真なのですが、記事を人に見せると「気づかなかった」と言われて40年越しの衝撃を受けています。当時は「ドリフかよ!」と家族全員が全力でツッコむクオリティ(と思っていた)でした。出来上がった瞬間から「こ、こいつぁマズい」ということになり、この約1か月半後の小学校の入学式の写真は、ショートカットにバッサリ切られています。
なぜかつらをかぶるようになったかというと、私は悪性腫瘍ではないので抗がん剤を使っていません。ただ、開頭手術なので毛髪は邪魔になるため、術前に剃髪したのです。
私の記憶では、「女子が丸坊主になる経験なんて一生ないだろうからなんか楽しそう」と思っていたことしか覚えてません。

ところが、母の方は非常に大変だったようです。
母的には「あんなに髪型をいじるのが好きな子に、剃髪なんて伝えたらどれだけ傷つくだろうか」と悩み、ひとりでは私によう伝えなかったと言っていました。
そこで出てくるのが「保母さん」です。
小児病棟には保母さん(現在の保育士)が常勤しており、病棟全員の面倒を見てくれました。私はこの保母さんが大好きで、面会時間以外のさみしい時はずっと保母さんと話していました。彼女は今でいうところのCLS(Child Life Specialist)的な役割を果たしていたと言えます。
母は、剃髪の前日は心配で夜も眠れなかったのですが、いざ病棟へ行ってみると、剃髪の前日、保母さんが私と1時間ほどじっくり話してようやく受け入れたそうです。。。
「嫌だった」という記憶が全然ないのですが、そうすると、現在の「丸坊主ってなんか楽しそう」という記憶は、保母さんが1時間かけてその気にしてくれた結果・・・なんでしょうね。
ありがとう、保母さん。

ひとりじゃない

大学病院の小児外科病棟には、一人ひとりが長編小説を書けそうなほどの深刻な病気とストーリーを持った子が入院しています。毎日面会に来る親同士も、お互い様のところがあるので、私の両親もいろいろな親に助けられました。
「こんな通りすがりの見ず知らずのおばちゃんに言われても、もうひとつやろうけど、応援してるよ」
「今が『底』だからね。これからあがっていくばっかりだから。」

また別のお母さんからは、「おかあさんといっしょ(にこにこぷん)のじゃじゃ丸・ピッコロ・ぽろりが、病気の子を励ますカセットテープを送ってくれるサービスがあるよ。一緒に申し込もうか。」と誘ってくれたそうです。私はそれを、母からもらったものと思っていましたが、これも病棟内の母親ネットワークで教えてもらったんだって。
先日、小児がんで1か月の余命宣告をされた子の親が、X(旧Twitter)で「仮面ライダーが好きなんです!!」と叫んだのに応えて、たくさんのライダー俳優が駆けつけていたことに賛否両論が巻き起こっていましたが(「否」が入っていることが残念でなりませんが)、それに近い応援メッセージでした。内容はもう忘れましたが、中尾隆聖さんと、肝付兼太さんと、よこざわけい子さんに名前を呼ばれた、っていうことよね。今考えると大変なことですね(声優マニア)。

神奈川県に引っ越してくる前に住んでいた、大阪の幼稚園のクラスメイトや先生達から、応援の手紙ががばっと送られてきました。
当時通っていた神奈川県の幼稚園はノーリアクションでしたが気にしないでおきましょう。
母は、手術前に個室に移って泊まりこんだとき、この手紙への返事を書きながら
「この子は6年しか生きていないのに、こんなにたくさんの人に愛してもらっているんだ」
としみじみ思い、素直にうれしかった、とことあるごとに言っていました。私はその当時はそこまで思いませんでしたが、母を勇気づけたアイテムとしてのエピソードとともに、この手紙のファイルは今でも私の手元で大切に保管しています。未就学児が書いた手紙なので、正直読めないものも多いんですけどね。

当時いただいた手紙のファイル


そんなこんなで、1988年2月末、生きて退院することができたのでした。
この時、母には、「お前は6歳で一生分の苦労をしたから、これから何も苦労しないよ」と言われました。私も「そりゃそうだ。そうでないと割に合わん。」と思ったのです。

でも、どうもそうでもないような気がします。(後編へ続く)

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