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【読書メモ】脱「いい子」のためのソーシャルワーク
すべての人が、この本に書かれていることの5%でも実践に移せたら、日本も少しはマシになるかもしれない、そんな本です。
「いい子」ってどんな子
そもそも、「いい子」ってなんや、という話ですよね。ここを、「いい子」と表現したおかげで、妙な皮肉と揶揄が生まれてしまっていますが、この本は、AOP(Anti-Oppressive Practice=反抑圧的ソーシャルワーク)を日本に紹介するものです。
上記の「はじめに」試し読みnoteの中にあるように、
本書で紹介する「反抑圧的ソーシャルワーク(Anti-Oppressive Practice, 通称AOP)は、上記のような(善意による支援者が、自らも「なんかおかしい」「こんなの変」と思いつつも「どうせ」「しかたない」と諦めを内面化させる)構造を「抑圧の内面化だ」と指摘する。本来は社会的・構造的な抑圧や差別を、個人の能力不足や自己責任論というかたちにすり替えて、個人が我慢してそれでおしまい、としてしまうことは抑圧の温存であり、ひいては(無意識であっても!)抑圧に加担していることにさえなるのだ、と。そのうえで、我慢やあきらめを越えて、「おかしいことはおかしい」と声をあげ、同じ考えを持つ仲間とつながり、支援現場や支援組織を変えていくことは可能であるし、実際にできている現場もある。それが反抑圧的実践の成果である。
そう考えると、「いい子」の「良い」という評価が、「制度を理解し、遵守する“いい子”」というのであれば抑圧を再生産するだけなんですが、「当事者(クライアント)のニードに忠実である“いい子”」と考えれば、そして、ことがソーシャルワークの本質である以上、当然当事者のwell-beingを最大化するのが使命ですから、「原則に立ち返って当事者に忠実であれ」ということなのかなぁと思いました。そうすると、「脱いい子」じゃなくて、「いい子であれ!」みたいになりますね。
当事者は、なんらかの生きにくさを抱えているからこそ当事者なので、当事者のニードに忠実な“よい子”であろうとすれば、大なり小なり抑圧に抗う実践は付随せざるを得ません。そんな場面で、「気持ちはわかるけどそんなこと言ってもしかたないよ」と説得にかかる支援者なら、いてもいなくても一緒ですから。
AOP(反抑圧的ソーシャルワーク)の中身
さて、「いい子」をどう考えるかは別として、本書が紹介するAOP(反抑圧的ソーシャルワーク)を支える要素は、こんな感じです。
①1つの抑圧の形のみに焦点を当てるのではなく、いろいろな抑圧の連鎖・交差性(重なり合ったアイデンティティ)に目を向け、分析を行うこと。
②ソーシャルワーカー自身が、自らの立ち位置を多方面から捉えること。
③問題を経験している当事者たちをエキスパートと捉え、ソーシャルワーカーはAlly(アライ:伴走者)として当事者と協働する中で問題の解決方法を見出していくこと。
④当事者ができることに関しては、ソーシャルワーカーは一歩引くAlly(アライ:伴走者)のスタンスで活動すること。
⑤構造的な問題がどのように家族・コミュニティ・社会に影響を与えているかを批判的に分析すること。
当事者が、自らの力で方向性を選びとっていくことを側面的に支えること(③、④)、その際に当事者の選択の支障となるような構造的な問題が何なのかを常に考え、分析し続ける(①、②、⑤)姿勢で臨むということですね(知らんけど)。
同調圧力への抵抗~無理じゃないのか
ここで、日本人の私は思います。
むりじゃね?
日本国憲法ができ、平等権が定められてから80年近くたとうというのに、いまだに女性は会議の場で「わきまえろ」と言われ、わきまえている女性が重用されるような、世界ジェンダーギャップ指数121位/153か国(2019年)を誇る日本においては、構造的問題を批判的に検討し、すでに専門職であったり性別であったり障害者であったりする自分の立ち位置の脆弱さに軽く涙した結果、「い、いやちょっとそれなかなかしんどいで」というのがAOP的批判的考察の結果だったりします。
実際、本書の中でも、自治体の福祉部局で非正規で働いてきた経験を持つ筆者のひとりも、これとまったく同じような感想を抱いています。本書全体として、カナダで展開されているAOPを紹介しているものの、「日本で経験した抑圧的な思いを連れてカナダへ行ってみたところ、AOPと出会い、開眼した」みたいな流れになっていて、「そ、そりゃカナダならそうでしょうよ」という気持ちにちっさくならなくもないんですよねぇ。
つい先日、オンラインセミナーのグループセッションでご一緒した、現在は日本で活動しておられるソーシャルワーカーとお話したところ、アメリカ留学経験があるようで、アメリカなどでは弁護士も普通にソーシャルワーク教育を受けて議論をしてきているのだとか。ソーシャルワーク教育の質と量が、日本と海外とでは全然違うんですよ…
日本で1ミリでもいいからできないか
ただ、日本としていつまでも世界ジェンダーギャップ指数121位のままでいい、というのなら仕方がないけど、多少は「勘弁してくれ」と思うのであれば、ちょっとでもいいので、当事者を制度にあわせて諦めさせるのではなく、当事者のよりよい生活のためにひと肌、いや、0.5肌脱いでみようじゃないの。
先ほどの非正規公務員経験の筆者は、「ささやき声のAOP」と題して、いろいろとちょっとしたことを日々の業務で実践されたそうです。職員から「外人」という言葉が使われるたびに、「外国人」と言いかえてくれるように伝えたり。「ジャマイカ人」「フィリピン人」と国籍で利用者を呼んでいるのを日本人に対するのと同じように名前で呼んでくれるように伝えたり。そうすると、職場内で、仲間になってくれそうな人から声をかけられたりすることがあったそうで、小さな実践も、無意味じゃないことがよくわかります。
本書では、日本におけるAOP実践の実例として、障害者の自立生活運動や、精神病院からの地域移行が取り上げられています。たしかに、これらは「反抑圧的」な実践の典型であり、そうした運動の先に今があることはとても重要なことです。
ただ、いずれも、誰でもできるものではなく、これを「典型例」として考えることは、かえってAOPへのとっつきの悪さを助長しそうな気もします。私が平素、かかわる人たちは、「戦う元気もない人たち」。自立生活運動が掲げるモデルは、障害の有無にかかわらず心身ともに健康で、さらにそれだけの権利意識を自らの中で確立できるだけの教育機会に恵まれた”エリート”であることにも注意しなければならないと思っています。それよりは、今、目の前にある条件の中で、100点でなくていい、60点(合格点)にも少し届かなくてもいい、20点(落第点)にならない程度の「ぼちぼちの権利擁護」を獲得するにも、抑圧は存在するんですよ、残念ながら。でも、「制度にとっての”いい子”」になってしまうと、20点もおぼつかない支援になってしまいがちです。まずは60点を目指す「ぼちぼちの権利擁護」のため、「ささやき声のAOP」から始めてみよう、という気持ちになりました。
Ally (アライ:伴走者)という存在
ところで、話はぐっと変わりますが、このAllyという存在は、ここ最近難病カフェをする中でゆるゆると考えていたことでした。
社会福祉士会や自治体では、認知症カフェを福祉職が運営し、そこへ当事者や家族がやってきます。ひきこもり支援においても、同じような場所を「居場所」と称し、国をあげて広めようとしています。がん拠点病院に限らず、がん治療をしている病院であれば、病院が提供する「がんサロン」なんていうものもあります。いずれも、当事者だけでする、というものではなく、専門職や支援者が「場」を作り、そこへ当事者が参加するパターンがほとんどです。
ところが、「難病カフェ」だけはなぜか企画から運営から広報から何から何まで当事者がやっていることが多いのです。別にいいっちゃあいいんですが、体力持たない系の「元気のない人」なので、持続可能性に大きな不安ががが。また、難病者の運動も、Allyに相当する支援者がいたことがあまりない。それは、筋・神経難病でない限り、「ヘルパー」というものを要しない生活の態様もあるのかもしれません。自立生活運動は、当事者と、その生活を支える介助者(ヘルパー)の二人三脚で展開されてきたところがあります。生活の態様として第三者の介入がなかった難病者において、しかも「黙っていれば健常者のフリができる」「健常者のフリをしている方がコスパがいい」というところがあります。
ただ、私たちは、難病者しかいない世界で生きていくわけにもいかないので、自らAllyを探しに行く、ということも必要なんでしょう。そのためにも、難病法に基づく施策が、ひきこもり並みにカフェ事業に傾倒してほしいところです。・・・よしあしはあるとしても。