醜さと汚なさと美しさ
ある日、財布が汚れてあることに気づいた。
僕が所有している財布は、染め物の革製品だ。
不用心に日光が当たる場所に置いてしまったせいだろうか。
この財布を買うことに決めた理由は、自らの感性が響いたからだ。
以前までは、有名ブランドの財布を使っていたがある日、有名ブランドの名前そのものに捉えられていた自分に疑問を抱くようになった。
無名だが、自分の日常生活に溶け込む芸術品の様な財布に出会ったら購入しようと考えていた矢先に、巡り合った財布だった。
そんな、財布が自分の不用心から醜くくなってしまった。
だが、不思議と残念がる自分はいなく、これまでと変わらないでこの醜い財布を好んで使っている。
お気に入りの財布が汚れたのに感情が下降するばかりか寧ろ上昇して、これまでと変わらずに使用している自分自身に疑問を抱く様になった。
「どうして、僕は醜くなった財布を変わらず使用しているのだろう。」
と、自分を問いただす様に自分が考える美しさの定義について改めて考えるようになった。
考え、整理し、そして、言語化に至った。
僕は美しさに対して
”美しさとは醜さの上で成り立っている”
といった価値観を有している事が分かった。
120%全て美しいモノなど、この世には存在しない。
醜さや汚なさがあるからこそ、美しさは成立するのだ。
そう思うと寧ろ、この汚れた財布は本来の美しさのあり方なのかもしれないと考える様になった。
醜い財布は、汚れた部分の他は相変わらず美しい。
そして、汚れた部分は愛おしく思える。
自分の美しさを言語化することで、改めて再認識した。
美しさと醜さが両立している唯一無二の自身の財布がこれまでよりも愛らしく思う。
僕はこれからも、この財布を好んで使うだろう。