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地平線-燃える夕陽-国境越え



動機は「人生観変わるよ」の一言

 日本にいると水平線は見ることがある、でも地平線は見たことがなかった。
21歳の冬、初めてパスポートを取った。
もう10数年以上も前のことだ。
同級生が前の年にインドで旅をしてから自分も海外に興味を持った。
「人生観変わるよ」って学校で言われたのを覚えてる。
それから地球の歩き方や当時好きだった高橋歩の本などを見て海外への想いが日に日に強くなっていった。
それからしばらくして東南アジア旅行の計画を立て、飛行機のチケットとパスポートをとった。
就職活動も終わっていたので学校→バイト→友達の家で遊ぶのお決まりのルーティンからちょっと違う世界へ飛び出そうとする高揚感があった。
なんとなく陸路で国境を越えたいと思ってタイ→カンボジア→ベトナムのルートで旅をしようと決めた。
貧乏旅行、バイトで貯めたなけなしのお金、スリやボッタクリに合わないかの不安、いろいろな想いがあったけど好奇心の方が優っていた。
飛行機で6時間、初めての海外、好奇心と少しの不安、言葉が通じない、ルールも日本と違う。
タイに降り立った時の初めての海外の空気、匂い、湿気、気温などが今でも感覚としてある。

国境線

タイに降り立ちとりあえず安い宿を探しにカオサンへ行った。
ここはきたかった場所の一つ、バックパッカーが集まる街に興味を持っていた。
同時にバックパッカーというものに憧れを持っていて、自分もその一員になったように思い満足した。
車、人、バイクがなんのルールで行き交っているかわからない雑多な街。
でもそんな雰囲気がすごく居心地がよかったと思う。
数日間、タイで過ごして陸路でカンボジアへ移動した。
永遠に思える長い一本道、古い型のハイエース、幸いエアコンは効いていたが定員ギリギリの車内。
数時間車に揺られて国境線に到着、当時誰から聞いたかわからないが国境ではよくタイとカンボジアの軍が小競り合いをしていると聞きちょっとドキドキしていたが特にそんな雰囲気はなかった。(誤情報だったかも)

なんてない普通の雰囲気だった。
日本に住んでると国境という感覚がない、海に囲まれているからなのか、外国に対しての認識がTVの向こうというイメージだった。
今回の旅のテーマである陸路の国境超えの瞬間。
意外にそこまで高揚はしなかったが、達成感はあった。
そこからシェムリアップに向けてまた車に乗った。
ずっと草原が続くがそこまで退屈ではなかった。
移動中はTHE BLUE HEARTSの青空や奥田民生のさすらい、イージューライダーを永遠リピートで浸っていた。

声が出なくなった日

僕のゲストハウス好きはこの日から始まったと思う。
シェムリアップに着いて目星をつけてたタケオゲストハウスへ。
ここは日本人が多いことで有名だった。
翌日、事件が起きた。
昼から急に声が出なくなった。
午前中からかすれ声、午後から一気に声が出なくなった。
出そうとしても空気が抜ける。
おそらくカンボジアの砂埃にやられたのだと思った。
当時は相当パニクってた、初めての海外で声が出ない、このまま一生出ないのか?とかも思って不安だった。
そんなこんなでエントランスにいる時に他の旅人から声をかけられた。
大丈夫?病院連れて行こうか?
僕にとっては神様が助けてくれたと思った。
そのまま二人乗りバイク2台で大きな病院に同行してくれた。
英語が話せなかったのでその方が全部通訳もしてくれてすごく助かった。
それをきっかけに仲良くなってその日は一緒にご飯を食べた。
どうやらカンボジアの村で小学校を立ててるらしい、しかもすでに建設済みのNPOの代表の人だった。
今は仲間が立ち上げた団体を手伝ってるようだ。
時間があるなら手伝い来てよと言われて二つ返事で行きます!と言った。
実は旅に出る前に「僕たちは世界を変えることができない。」を見て学校建設にも興味を持っていた。
まさかこんな偶然で小学校建設に携われるとは思ってなかた。
声が出なくなったのはこのためだったのかさえ思った。

言葉にできない

翌日はアンコールワット観光へ。
ラピュタのモデルと言われた遺跡やアンコールワット周辺の移籍を巡った。

アンコールワット
ベンメリア

観光!って感じの1日を過ごし翌日は村へ学校建設の手伝いに行った。
宿から2時間ピックアップトラックで舗装されてない凸凹道をすすむ。
資金の関係から建設は旅人の有志が集まって手作業でレンガを積んで専門的なところは現地業者にお願いするという形だった。
カンボジアの歴史に詳しいわけではないがカンボジアではしばしばNPO団体が小学校建設を行っているところが多い。
昔ポルポト政権下で知識人や教育関連のものが全て亡き者にされてきた。
あとは経済的な理由から学校へいけないなど。
教育が十分に行き届いていない状況。
インフラも十分ではなく、電気は村で村長の家だけ、お湯はでないから井戸の水で体を洗うなど、日本からきた僕はそういった現実を目の当たりにして言葉が出なかった。

村までの道

そんな状況で頭が追いつかない中、その日の建築が始まった。

建設は暑くて大変だったけど、村の現状を頭で考えながらも黙々と作業をした。
夕方になって帰る時、村人が見送りにきてくれた。
子供たちはすごく幸せそう。
大人たちも。
そんな姿を見てると、日本での生活を思い出した。
来年からは社会人、必死で就職活動をした。
見てくれはいい会社に決まったけど、ほんとにその会社に入りたいのか、どんな人生にしたいのか、何がしたいのか。
当時の1年前後くらいはそんなことが頭の片隅にあって何かに追われて何かになろうとしてて、他人が輝いて見えたり。
まとまらなかったけど何かこの村の人たちとは本質的なところが違う。
自分は何かよくわからないけど、日本って本当に幸せなのかなぁと漠然と思った。

村の子供たち
村の子供たち

時間になりピックアップトラックでまたきた道を戻った。
帰りも何か悶々としてた。何も言葉にできない、ならない。
ずっと地平線と夕陽を見ていたら少しスッキリした。
自分の人生、やりたいことにとことん向き合って行こうと思った。

夕陽

それから

自分にしては長く書いてしまった。
友達が言ってた「人生観変わるよ」をきっかけに旅に出てよかった。
旅から帰ってきても今日までいろいろなことががあった。
ほんとに価値観変わったし、自分の人生にプラスになった #忘れられない旅 だった。
思い通りには行ってないけど、なんだかんだ自分のやりたいように生きてる。
今年、第一子も生まれて、会社も立ち上げました。
この記事を書きながらすごく遠いとこまで来たなぁと思いながらも、このような出来事の積み重ねに今があるんだと改めて実感。
JTBさんこのような企画をしてくださってありがとうございます。
この企画がなければ過去の旅を振り返ることもなかった。
まだまだこれからもいろんな旅をしていきたい。

#忘れられない旅 #バックパッカー #カンボジア