鑑真和上を日本に呼んだのは、税金逃れのお坊さんを取り締まるため?!
鑑真が日本来た背景
事の発端は、天平7年(735年)に日本人の僧侶である栄叡(えいよう)と普照(ふしょう)という二人のお坊さんが遣唐使船で遣唐使といっしょに唐へ渡って、鑑真に日本に来てほしいとお願いをしたところから始まります。
この天平7年(735年)頃の平城京の日本では、農民など庶民は兵役と重税にとても苦しんでいる時代でした。
そんな庶民が兵役や重税を免れる方法が僧侶となることだったのです。
この特権を得ようとして多くの人が、自分で得度(僧侶になることを宣言)して僧侶になっていました。こうした僧侶を私度僧といいます。
私度僧が多く出現するということは、僧侶になるための厳格な基準というものが整っていなかったためで、自分で勝手に「私、お坊さんになりました。兵隊にも行きませんし、税金も払いません」ということがまかり通っていたわけですね。
こうした私度僧の出現により、僧侶の品格が落ち、兵役と税収の不足に困った朝廷は、僧侶になるための戒律を授ける授戒制度を整えようと決意しました。
但し、当時の日本には授戒ができる僧侶がいません。
そこで、仏教の先進国であった唐から授戒のできる僧侶を招き入れて、私度僧を一掃しようと試みたわけです。
本来であるならば、為政者は庶民が兵役や重税で苦しまなくても良い社会を創ろうと試みるべきと思いますが、ま、そんな民主的な考えが通じる時代ではなかったのでしょうね。
鑑真 6度目の試みでようやく日本にたどり着く
当時、遣唐使も命がけで日本から唐へ渡っており、鑑真の来日も大変困難なもので、何度も失敗し、病を患い両目を失明するという大変な事態にもなりましたが、6度目の試みでようやく日本にたどり着いています。
鑑真がようやく日本に到着したのは753年です。
735年に栄叡(えいよう)と普照(ふしょう)が唐へ行ってからなんと18年の歳月を要しています。
鑑真が日本に来た理由は、もちろん日本に戒律を定着させ日本の仏教に貢献したいという情熱があったことは疑いがありませんが、安史の乱(755年)に象徴されるように政情が不安な唐から離れたかったという理由もあったのではないかとの説もあります。
鑑真 来日後の活躍
鑑真は朝廷の望む通りの活躍をします。
まずは、東大寺大仏殿に戒檀を築いて、上皇、僧侶など400名に菩薩戒という戒律を授けています。これが日本における最初の授戒と言われています。
その後、大宰府や下野の国にも戒檀が設けられ、授戒の制度が一気に整いました。
そして、759年には唐招提寺を創建し戒檀を設け多くの授戒を行いました。
唐の揚州に生まれ亡くなる763年まで、鑑真はこの唐招提寺でその晩年を過ごしました。来日が753年なので、日本での生活は約10年です。享年76歳の生涯でした。
日本に来ることを決意して、実際に日本にやってくるまでに18年を費やしたことを考えると10年という歳月は短かったかも知れませんが、日本の仏教の戒律整備に多大な貢献をした人生でした。
波濤を越こえて「鑑真和上と美濃の僧・栄叡」展
栄叡は既に紹介のとおり鑑真の来日に命がけで尽力した日本の僧侶です。
岐阜市立歴史博物館で、2021年10月8日(金)~11月23日(火・祝)開催されます。
唐招提寺 御朱印
唐招提寺では素敵な御朱印を授与しています。
御朱印の収納には谷口松雄堂の御朱印帳を(^▽^)/
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