「君にはもう新しい世界を作る力がある(上)」の物語を紹介していきます(1)
第一章 津田先生の叱責(小学四年生の冬)
津田先生が教室に入ってきたのに気付かなかった。
「そこの六人、渡り廊下の前に並びなさい」
と言って先生は自分から先に教室を出て、振り向きもせず、廊下を職員室の方にどんどん行った。きっと先生の靴箱に脱いだ靴を履きに行ったのだろうと聡は思った。津田先生は六人が並んでいる渡り廊下の前に来ると、荒々しい声で言った。
「ここに並んで」
「一列に、もっと速く」
聡は反射的に先生を見た。見たこともない厳しい表情だった。いつもは目が笑って、ほっとする温和な顔だが、今日は違った。声も違う。平静を装っているように聞こえるが、怒気を抑えている。
「どうしたんだ」
鉄平が前を向いたままで鋭く声を切る。不平があるとき、その意思表示として鉄平は口をとがらせる。とがらせた口から白い息ができてすぐ消えた。寒い。心底冷える。
「分からん」
鉄平の耳元で囁いた。誰もがまごまごしている。何かに集中するときは、まるでプロの戦士のようにカッコよく戦列を組むのに、皆、気が動転している。義久はまだ反対方向に向いている。慌てて向きを直して、隣の新介とぶつかって、前につんのめっている。聡は何が起きたのか分からない。ストーブの上でのロケット発射遊びが咎められたのかなと瞬間的に思ったが、本当のところは分からなかった。聡は清武小学校の四年生である。一学年一クラスで同級生は42人。ちょうど半分が男子である。一年生と二年生は、少し離れた所に立つ元幼稚園だった木造の建物を改造した校舎にいる。これは聡たち上級生の校舎とはコンクリートの飛び石が置いてある渡り廊下で繋がっている。聡たちはこの渡り廊下を行き来するのを楽しみにしている。飛び石の淵ぎりぎりのところを歩いて、落ちそうになるのを両手でバランスを取りながら行ってみたり、いくつかの飛び石を飛ばして、いかに少ない飛び石で渡り切って見せるかを競ったりした。聡たちは今、この渡り廊下と並行になるように並ばせられている。隊列が揃うまで神妙な気持ちで待った。目の前に渡り廊下の屋根からぶら下がっているつららが見えた。曖昧なことに気をとらわれるより、はっきりしたことに集中する方が冷静さを回復することができるとお父さんが教えてくれた。運動場の土埃や屋根の上にそびえる大木の落葉が堆積した屋根を洗った雨水からできているはずなのに、どうしてつららはこんなに透明なのであろうか。そして沢山のつららの中に、きらっきらっと光るのがある。冬の朝のか弱い木漏れ日がときたまつららを光らせているようだ。校舎の背面と東側には赤松や杉の大木が育ち、無数の葉や枝が手を広げている。それらの葉や枝の間を通過できた運の良い光のみがつららに到達する。しかも、風が葉や枝を揺らす。その都度、光束が制限される。つららの中を横切る光がつららを輝かせる瞬間に出会うと、この奇跡の産物の蜻蛉にうっとりする。あの伯爵夫人が身につけていた宝石はこのように輝いているのであろうかと思った。昨夜、布団の中で読んだ小説の中に貴婦人が出てきた。夫である伯爵は政敵との競争がありパリ滞在が長く、田舎の広大なシャトーには帰る日が少ない。貴婦人は暇をもてあまし、社交界で大半の時間を潰す。社交界から帰るといつも、寝る前に裸になり、宝石だけを身に着け鏡の前に立ち、裸身にうっとりする。そのときの鏡の中で輝く宝石を思い出させた。なかなか眠れないとき、父の書斎の書棚から適当に本を引っ張り出して読む習慣ができてしまった。気がつくと、我が友は戦列を組み、いつもの冷静さを取り戻していた。聡はこの仲間であることを誇らしく思った。次の瞬間、
「新町一歩前へ」
と津田先生の声が上がった。その直後、パシッと乾いた高い音がした。
「次っ」
と声。隣で義久が一歩前に出た。パシッと二発目。聡はすっと一歩出た。すぐに左側の頬に一発きた。身体が少しよろけた。しっかり立てと自分の不甲斐なさを恥じた。生まれて初めて人に頬を打たれた。新介、法宏、恵と次々に打たれた。静かになった。津田先生は無言のままで、仲間の誰も口を開かなかった。聡はまっすぐ先生の顔を見上げた。太い黒縁で固定された分厚いレンズの中で先生の目は怒っていた。やがて怒りの色が和らぎ悲しげでしょぼしょぼに変わっていった。腕を開き加減にして身体の横に下ろしていた。たった今皆の頬を打った掌は大きく、五本の指がバラバラに開いていた。指は節くれだっていた。ペンしか持ったことがないという軟な指ではなかった。農家の人が津田先生に稲刈りを手伝ってもらったとか、リンゴの収穫を助けてもらったというのを何度か聞いたことがあるが、この逞しい指と手はそういう生活からできたのかと思った。
「どうして私が怒ったのか分かるな」
先生は言った。
「分かりません」
鉄平が言った。その声は理不尽なことには我慢できないと言っていた。
「そうか。今朝、ストーブの上に何かを乗せていたね。あれは何だ」
「科学の実験です」
「どういう実験なのかな」
「ロケットの実験です。六人が作ったロケットの中でどれが一番飛ぶかの実験です」
「どのように設計したのかな」
「鉛筆のキャップにセルロイドの下敷きを小さく切ったものを詰めたものです」
「飛行高さはいくらを狙ったのかな」
「飛行高さって何ですか」
「科学の実験だから、計画した値があるだろう。このくらいの高さまで飛ばすという値があるだろう。ないのかな。ロケットを飛ばす方向、ロケットが落下するまでに飛行する距離や滞空時間はこのくらいにするという計画している値があるだろう」
鉄平は頭脳明晰で物知りだが、津田先生の顔を凝視したままで固まっている。鉄平は思考回路が固定するという弱みがある。優秀だから問われる質問に答えることができる故に持つ落とし穴にはまるのである。頭脳の引出しにない問いかけをされると立往生する。応用問題が解けない。自分なりの解釈をして、質問の真意を見つけるための時間稼ぎができない。狡さに欠ける。こういうときは、津田先生とは違う論理に持っていかねばならない。聡がバトンタッチした。阿吽の呼吸で。これこそ戦友というものだ。
「大きくなったら、宇宙開発に役立つ仕事をしたいと思います。今でも、本を読んでロケットがあるという知識はあります。でも、ロケットのことは何も知らないのです。見たこともありません。できれば、修学旅行の行先の一つに種子島を入れてもらったりできないのでしょうか。僕たちはロケットに触ったこともありません。ロケットがどうして飛ぶのかも知りません。飛行機みたいに翼がなくて、まっすぐ飛べるのか、その理由も知りません。それで、今朝、ロケットを作って何が起きるか試してみたのです」
「何が起きたんだい」
「ロケットを順番にストーブの上に置きました。置くとすぐ、ロケットが飛びました」
「どこへ」
「色々です」
「その中の一つが、久保田さんの顔を掠めただろう。谷川は知っているか」
「いいえ、気づきませんでした」
「僕のロケットが俊子の方に飛びました」
恵が言った。
「もし久保田さんの目に当たっていたらどうなるか考えなかったのか。目でなくても顔に当たって大きな痣ができたらどうする。久保田さんは、優しい、色白の可愛らしい女の子だ。これからの人生をお前たちの不注意のために片目や顔に痣を付けたままで生きることになったかもしれないのだぞ。そのことを考えたことがあるのか。ないだろう。先生は、そういうふざけたことをしたお前らに腹が立ったのだ。先生はな、皆に堂々と幸せな人生を生きて欲しいと願っている。そのために、人のことを考えて行動する賢い人間になって欲しいと思う。科学や工学に関心を持つのは大事なことだ。単なる知識だけではなく、自分で経験して納得することは貴重だ。好奇心を持つことは新しいことへの扉である。ロケットが何かを肌で理解するために何かをやってみようという心意気については、お前たちを誇りに思う。もう一方で、今までに多くの天才が科学、工学の分野でかけがえのない発明発見をした。この偉大な業績には天才が気付かなかった、人類にとって災難の原因となることが数多く含まれていた。発明発見した天才が、後からそれに気づき対策を講じることもあれば、他の天才がそれをすることもある。何かをするときには常に、人に危害が及ぶ可能性がないか、負の効果は何かを考えなくてはならないのだよ。久保田さんの顔を思い出して、人への思いやりを忘れないで、大事な仕事をする人になってくれ。新町君、先生が怒った理由が分かったかね」