やっぱり教育を考えてしまう
教育という定義を考える
今回は、教育についての定義というものを少し見直しながら、お祭りの話なども含めて考えてみました。
教育って言葉が嫌いと言われたこと
とあるお祭りで大変お世話になっている先輩(若いときに大変お元気だったらしい)に教育を中心に活動しようと思っているというお話をしたところ、教育という単語が嫌いだとおっしゃられていました。私も、教育って言葉は今の会社に入るまで好きではありませんでした。教育が学習や自己実現というようなところに結び付くか、抑圧に結び付くかで大きく変わるのだと思います。子供時の環境で好きにも嫌いにもなるということで、そこも含めて教育なんですね。
もしかすると、もしかしたかもしれないと言われたこと
こちらもお祭りをされている大先輩(若いときに大変お元気だったらしい)のお話で、小さいときは海上自衛隊に憧れていて・・・という話を初めて聞きました。子供の時にどうしたらなれるのかを教えてくれる人がいなかった。真剣に聞いてくれるような大人が近くにいないと感じていたという。本気で一緒に考えてくれる大人が居たらもしかしていたかもしれないという言葉に、すごく納得をした。
なんとなく見えた共通点らしきもの
最近、このような話を聞く機会が増えてきて思うことは、勉強が嫌だという人でも年収が高い(一つの指標として)人の共通点がなんとなく見えてきました。礼儀の存在です。お祭り関係者なのでそう見えるのかもしれませんが、どこかのポイントで尊敬できる先輩と出会い、人生が変わっていっているようなことがあり、恩を感じていたり、命を懸けるほどの想いというか、もともとの強い意思力のようなものが礼儀というか「人として正しいということ」と混ざり合っているようなイメージです。京セラの稲盛さんもケンカばかりしていたお山の大将的な子供時代から病気などを経て、大学ではガリ勉となり、勝気×哲学×知識という人間性が成功のカギだったかもしれません。
そこから考える定義
自分で気づくにしろ、大きな出会いがあるにしろ、自分の力を使う方向がわからないという子供たちを教育で導くということが大切なのだと思いました。教育というものは知識的な勉強だけでなく、心の成長や成長する方向を一緒に考えるということなのでは?と思いました。教育者というよりメンターに近いかもしれません。そういう意味ではお祭りの先輩後輩関係は、実家から独り立ちしたした後にメンター関係として機能する要素があるのかもしれません。そうするとここで言う教育という定義は人生の先輩から後輩へ人生というものの事例を提示しつつ・・・という堅苦しい表現も可能かもしれません。そこに私は本当に大切な教育があるのではないか。お祭りをやっていない人はどうか。町全体でこのような教育をしたらどうか。など考えているのが現状です。
衝突から生まれるものもある
こういう話をするとディベートみたいになることがあります。それは違うとか、こういう場合はどうなるのか?というようなことからいろいろな意見がぶつかったりします。そこから新たな知見を得たり、一段階考えが成熟したりします。人を否定したり、人格を攻撃したりするのではなく、人道的なルールの上で自分の意見を自由に述べ、ぶつけ合う習慣というか環境も必要なのだと思います。自由に発言していい(しなくてもいい)のだという安心も教育に入ると思うので、そういうところも掘り下げて考えたいなと思います。ルールに則り、己の信念をぶつけ合い、試合が終わったらノーサイドなんてスポーツのようにディベート出来たら・・・とか言っちゃって。
まとめ
教育というと堅苦しくなってしまいがちだけど、身近にある行動が他者の教育になっているとすると、自分の行動と責任を感じました。そして、力の使い方次第でまだまだ活躍できる人はたくさんいるし、これからも育てていくことは可能で、地元を愛するそんな素晴らしい人たちが増えてきたら、日本全体、地球全体の利益にもなるんだと改めて考えたというお話でした。ありがとうございます。
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