オンラインビブリオバトルとこれから
ご質問ありがとうございます。
そのむかし、ビブリオバトルは2007年頃、Wikipediaやブログサービスなどが隆盛を始め、Youtubeなどのサービスが芽吹く頃、情報系の研究室で生まれました。
情報系はオンラインの方向性を強め、なにかのアクティビティをWEB世界に置き換えることで研究成果とするような風潮を感じていました。その中で僕は「人間活動の何が実世界に置かれ、何がオンラインに置かれるべきか?」のwell-balancedな状況を考えていました。これは機械と人間の分担において、何を人が行い、何が機械が担うべきかという人間機械系の議論とパラレルでした。
その中で、「同じ空間を共有する」ことを重要としてとらえコミュニケーションにおける身体性を重視して、僕はビブリオバトルをデザインしました。
これは公式ルールの第一条
1.発表参加者が読んで面白いと思った本を持って集まる.
というところに表現されています。
なので、実は谷口は、初期においてテレビ会議システムをつかってビブリオバトルをすることには若干否定的なポジションを取ってきました。
しかし、そのポジションは若干、理念的であり、感覚的であり、その否定的なポジションをを支える問題の構造を十分に言語化は出来ていませんでした。(僕の著書をみてもらっても、多分、この論点には十分な論理的、実証的根拠は与えられていないと思います)
しかし、十年以上の流れのなかで、技術は変化します。テレビ会議システムはZOOMなどによって誰でも無料で使えるものに変わりました。
自らが考えていた「実空間と身体性の重視」自体も改めて批判的に考察すべき対象に思えてきました。「思い込み」はさらなる思考により時に反省し、改めていくべきものだからです。もちろん観察や思索により信念がさらに強化されることもあります。
そんな中、いくつかの施行と思索が生まれます。
ビブリオバトル普及委員会のメンバーの中にオンライン・ビブリオバトルを行うメンバーが現れてきました。正直、最初は「どうだろう?」と少し疑問をいだきました。ただ、それがどのような体験を生むのかはわからなので、試行そのものは行うべきものと、見守ってきました。その中でオンラインでもある程度のビブリオバトルらしさは残りそうだということが見えてきました。(もちろんほとんどの人々が現実空間でのビブリオバトルの方が好きです!)
別の思索として、地方(田舎)でのビブリオバトルの論点があります。地方によっては本好き(?)が集まってビブリオバトルをするにも、そういう人がリアルに集まりにくい場所が多く存在するのだと分かってきました。結局、人々が集まってビブリオバトルを出来るのは(状況や企画によりますが)都会の人間の贅沢ではないか?と思えてきたりしました。オンラインは空間の制約を消します。それゆえで、より多くの人がビブリオバトルを楽しむにはオンライン・ビブリオバトルの可能性は探求する価値があると思えてきました。
身体を持って集まることの重要性とは何でしょうか? 感覚的にはわかりますが、テレイグジスタンス(遠隔存在技術)や無料のWEB会議サービスが広まる中で、どこまで身体を持ってあつまることを特権化していいのでしょうか? そこは決して無批判に受け入れることでもないかもしれません。
そんな中で2020年にコロナがきました。
そして対面のビブリオバトルが開催不能となりました。
僕は一方で思いました。
これはオンライン・ビブリオバトルの可能性を探索する好機なのではないか?
そして僕からも声がけし、またその他にも多くの場所で自律分散的にオンライン・ビブリオバトルが広まりだしました。
さて、1年間の試行錯誤の結果、少しずつ見えてきた気がします。2020年現在のオンライン・ビブリオバトルの機能とその現状での限界が。
本に出会うという点においてはオンライン・ビブリオバトルはそこそこ面白いし、ビブリオバトルの機能を保存しているように思います。一方で、交流面に関していえばなかなか厳しさもあると思います。これは様々な学会やシンポジウムで「立ち話が出来ないから交流しにくい」というものと同根です。
もちろんそれは現状のZOOMなどのインタフェースやデザイン、機能に依存することであり「オンライン」であることから自動的に導かれる結果ではありません。
ただ上記の「感覚」「質的な差」もまだまだ主観感性評価実験などを通してエビデンスが得られたものではなく、まだまだ感覚の域です。できるならビブリオバトルのオンラインとオフラインの差異に関する学術的研究がなされることが期待されます。
さてさて、論文ではなくてnoteなので雑文的に書かせていただきましたが、もちろんオンライン・ビブリオバトルはオフライン・ビブリオバトルの「完全な代替物」にはなりません。コミュニケーション場はメディアに規定されます。それはマーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と主張したこととある程度重なり合うものかもしれません。
上記から、僕のオンライン・ビブリオバトルに対する現状のポジションは伝わっていれば良いなと思います。
最後におまけ的ですがデジタル・ディバイドに関してです。論点としてはあるとおもいますが、ディバイドはデジタルだけではありません。居住地のディバイド、所得に関するディバイド、移動できない身体的問題等のディバイド。そういうことを考えるとオンライン・ビブリオバトルはむしろ裾野を広げる可能性も十分にあります。
ビブリオバトルのみならずあらゆる分野で、僕らが得た新しいメディアがどのように僕らの活動を変質させるのか、その上で僕らがどうコミュニケーション場をつくっていくのか。
オンライン・ビブリオバトルはその問いの道程にあるのだと思います。
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