「自分にとって大切でない人の声は聴かなくていい」
あらゆる人の声を聴くことが仕事の一部である私が、こういうことを言うと良くないのかもしれないけど(そうして、後述するけど、そのことの私の中での折り合いとしては、その人が私の「クライアント」であれば、「(仕事上)大切な人」であり、そうでない場合は聴かなくていい、という形でつけているのだけど)、こうして、人目に付く活動をしていると、いろんなことを言ってくる人たちが本当にたくさんいる。
その中には、箴言というか、真に耳を傾ける必要があるものが含まれていることもないではないんだけど、見当違いのものも多く、基本的には相手にしないことにしている。
山田令司さんの「絶望につける薬」の中で、玄侑宗久さんに山田さんが「こういう活動をしているといろんな人がいろんなことを(勝手に)言ってくると思うんですけど、それらに対してはどうしているんですか?」と聞いた時、玄侑さんは「聞こえないんです。そういう声は、本当に聞こえないんです」とおっしゃっておられた。
5年ほど前に、私が現在の活動やSNSでの活動を始めてすぐのころに、「谷川は、寄付で麻雀をしている」ということをあちこちで喧伝する人が、どうやらいたらしい。私はそのことを、知人から聞いたのだけど、そもそも、知らせる必要がないそれをわざわざ私に知らせる人のメンタリティ(あるいは病理)について向き合った方がいいような気もしないではないけど、とにかくそういうことがあって。
でもまあ、その、言っている人は、私が収入のうちどれだけを活動に使い(そのころも今も、収入額自体は変わっているけど割合は8割で変わっていない)、そもそも自分の収入の中で遊興費を何に使うかはその人の自由で、もっと言うと、そのころ私が麻雀やパチンコで(すごく努力して)叩き出したプラスも活動に使っていることなんて知らないし、私のことを知っている人なら、私が、中長期的に見て期待値マイナスなことをわざわざするわけがない、ということも知っているはずなので、そんな、私のことを知りもしない人がいっていることを、わざわざ否定する必要もないなあと思ったことがあって。
その、言っている人が望んでいるのは、私の耳に、そういうことを言っている人がいるということが届いて、それによって私が打ちのめされたり、迷いが生じたりして、短絡的に言うと「弱る」ことを期待していて、どうしてそういうことを望むかというと、その人自身が弱っていて、でもそれを認めることができなくて、私が堕ちることでその人に近づくことであり、相手をしてもらうことであり、それを素直に言うことができないから、別の形でそれを表現しているわけで。
そこまで汲み取って拾い上げることまで求めているのかもしれないけど(そうして、認めたくない人は、「違う」と言うのだろうけど)、私にとって「クライアント」とは、「私を助けてください」と表現することのできる人であり、その表現ができる機会はこちらとしては(不十分ではあるかもしれないけど)様々な形で用意をしていて、そのスタートラインに立つことができない人は、私にとっては「クライアント」ではなく、「クライアント」でない人の声まで聴く必要はない、ということになる。
「足を引っ張ろうとする人への一番の報いは、幸せになることだ」ということは広く言われるようになったけど、それでも言われるとダメージを受ける人もたくさんいて、だからこそ足を引っ張りたいと思う人は絶えないんだけどさ。
「あなたにとって、私にとって、大切でない人が言うことは聴かなくていい」というのはたしかに救いで、でもまあ、そんなことを続けていたら、玄侑さんの言うことが少しづつだけどわかってきたような気がしている。
本当にね、聴こえなくなるんだよ。くだらない人が言っていることは。