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ヘイター認定の自由こそ基本的人権なのか: 小峰ひずみの私に対する名誉毀損について

(追記 2024.11.21)
本件に関して小峰ひずみ氏・『文学+』WEB 版責任者の中沢忠之氏より、私の「要求」どおりの対応がなされましたので、追及は終了といたします。以下の各記事をご参照ください:


A. それはもう「言論」ではない

 以下の文章は、いかなる意味でも小峰ひずみに対して「応答」するものではない。このことを、まずはっきりさせておく。私は小峰ひずみを「批判」しない。なぜなら本件は「批判」以前の問題であり、小峰の冗々くだくだしい「論」などに付き合わねばならない義理は、私にはさらさらないからである。私は単に被害者であって、たまたま同一のトークイベントで登壇することになった(実現しなかったが)にすぎず、小峰という男の書くものに対しては何の興味もない。私がしているのは「応答」や「批判」ではなく「要求」であり、自分の行なってしまった加害(不法行為)について、まともな大人ならば筋を通せ、と言っているだけである。本件は「もらい事故」でしかない。だが、つい指が滑ったのであろうと、文筆に糊口する(できているのかどうか知らないが)者は、みずからの公開した文書の内容に万々ばんばん責任を持つべきである。具体的には、私は小峰ひずみならびに『文学+』WEB 版に対して、当該記事の削除もしくは訂正、および謝罪文の掲示(追記)を要求している。これを最後通牒とする。

 ところで奇しくも、トークイベントの主題であった『情況』2024年夏号(トランスジェンダー特集)は、「言論の自由」をめぐって日本社会の最前線でかんのまじえられた場でもあった。そこで本件を奇貨として、近年の易きに流れるごとき「トランスヘイター」認定のようなものと「言論の自由」との関係について、はじめに一言しておきたい。「言論には言論で対抗を」というが、私は小峰の公開した何篇かの文書に対して「言論で」対抗する気はみじんもない。なぜならば、小峰ひずみの行なった行為はおよそ言論ではないからである。小峰は、二つ目に公開した文書の中で複数回にわたり、谷口はトランス当事者やトランスジェンダーアライから「トランスヘイター」と目されているという「事実命題」を主張した。いかなる根拠も示さず、そう信ずるに足るどのような背後の事実もなくである。これは小峰の意見ではない、従って論評でもない。特定の出来事や私の言説を評価して、小峰が私のことを「トランスヘイター」だと思った、というのではないからである。そうでなくこれは謂れなき事実の摘示であり、単に風説を流布しているだけである。このようなものは「言論」ではない。評論全体として小峰に何か言いたかったこと(論旨)はあるにしろ、私から「事実に反する」と指摘を受けた以上、かかる箇所についてはすなおに謝罪し訂正すべきである。根拠とともに論評するという論説文の基礎をわすれ、谷口にまつわる何事かへの自分自身の判断として「あいつはトランスヘイターである」と述べなかった、これは小峰が悪い。春秋の筆法だか小峰の筆法だか知らぬが、婉曲にくさすならくさすでただそうしておけばよかったものを、「だと目されている」だのと風評を撒き散らかしながら逃げを打つから、惰弱な人間を見ると虫酸がはしる気性の谷口という奴から怒られが発生しているのである。小峰よ。

 「トランスヘイター(トランスヘイトをする者)」という語は、他人の社会的評価を毀損せしめる、極めて重たい言葉である。「ヘイトスピーチ」や「ヘイトクライム」に見られるように、ヘイトとは個人や集団を属性によって差別し、憎悪を煽動することであり、ヘイターとはそれをする者である。そうみなされているという流言は、容易に特定の人物の人格否定につながり、社会的集団からの排除をもたらす。「ヘイト本」だとされた『トランスジェンダーになりたい少女たち』では、書店への放火脅迫が行なわれ、大手の書店が取り扱いを自粛するなど「言論の自由」の危機を誘致した。そしてまさに小峰も書いているように、「ノーディベート・ノープラットフォーミング」の原則があり、ヘイターとは議論をしない・ヘイターには物を書かせない、という強い排除効果を帯びた語である。そのような政治運動の原則の是非については、今は措く。しかしともあれ、誰がその「トランスヘイター」なのかということは、原則とは独立に判定されねばならない事柄である。「谷口はトランスヘイターだと目されている」という小峰の大虚誕でたらめは、まさに排除の対象として谷口を指定しているのであり、その蜚語のもたらす結果の重大性(社会的影響)について、小峰は知悉していたと言わねばなるまい。いったいに、「ヘイター」という語を軽々に用いる向きにあっては、「ヘイト」それ自身の重みがむしろ過小に見積もられているのであって、「ヘイト」を自分の仲間内のつまはじきの道具ぐらいに思っているから、他人を証左もなく「トランスヘイターだと目されている」だの平然と書くことができるのである。すなわち、「あいつは敵の一派だぜ」という旨をコノテーションによって伝達する、言語行為のパフォーマティヴな側面における党派的遊びにばかりかまけて、「トランスヘイター」という語のもつコンスタティヴな意味(デノテーション)をすっかり等閑に付しておるから、こうやって一線を越えてしまい、文章というものの保たねばならない最低限の仁義をもうかうかと踏み躙るのである。れもそうの士たらんに、その言葉のかるさや、羽根にもかざらん。筆を折れ、小峰よ。

 ところで名誉毀損には真実性・真実相当性にもとづく抗弁が法理として認められているが、本件ではいずれも成り立たないことが明白である。真実性に関していえば、現に谷口はトランスヘイターではなく、そうみなされてもいないので、およそ虚偽を述べたとしか言いようがない。「トランスヘイト」が多分に主観的なものではあるにしても、「ヘイト行為」と外形的に評されうるような行動(たとえばトランス当事者のところへ行って女子便所について議論を吹っかける・特定のデモに参加する、といったような)ですら、谷口はかつて一度もしたことがない。谷口をトランスヘイターだと判断している文章は、出版物はおろか、ブログ記事程度の長文であっても、管見のかぎり存在しない。「谷口一平」と「トランスヘイター」を結びつけている文章は、小峰の公開した一連が〝初出〟である。小峰文書が世に出たことで、「目されている」は今後〝既成事実〟になるのかもしれないが、そうだとすると、谷口の名誉への損害に負う小峰の「言論」の責任のほどは、いよいよ重いと言わざるをえない。また真実相当性に関していえば、小峰は公開した文書の中でなんら根拠を伴わず風評を摘示しているのみであるから、小峰に「谷口はトランスヘイターだ」と信じさせるに足る、なんの確からしい理由もなかったことはあきらかである。だいいち、『情況』夏号に掲載された、私の論考を読んでもいないだろう。もし読んでいたら、この「トランスジェンダー特集」において当然予想される対立図式の中で、私がそのどちらの側の味方もしないために、どれだけ苦心して微妙なポジショニングをしようと試みているか、一読して判然したはずである。その対立図式を「ヘイターVSアライ」ぞと表現する小峰の恥知らずぶり(対立する立場を「ヘイター」呼びするなど論外である)にも呆れ返るが、谷口はその図式の中にいないという一番重要なポイントがまったく考慮に入っていない。おそらく小峰の範疇論では、敵/味方以外に人間を弁別する悟性概念を欠いているのだろう。ア・プリオリな能力の欠陥はしょうがないのでいちいちあげつらうことはしないが、そのような書き方で「評論」を書くことまで許されるかどうかは別問題である。きっと「目されている」とは、小峰のお仲間数人が根拠もなく「あれはヘイターだ」とかレッテル貼りしたのを、小峰が聞いて安直に「敵」分類したものであろう。テレビに映ったアイドルを見て、「どうせ枕営業で出世したんだよ」なんて親父が勝手に言ってるのはまあいい。だが、その親父の発言を根拠に「あのアイドルは枕営業で出世したと目されている」と書き、公表したとしたら、それは筆耕硯田する者のに恥じぬ正当な評論行為と言えるのか。小峰よ。

 そこで「言論の自由」という大きなテーマに帰ると、意見や論評としての他者への評価と、風説やレッテル貼りとしての他者への評価とは、区別されなければならないと私は考える。他者の言説や行動を根拠に、それを指弾・論難したり道徳的非難を浴びせかけることは、(それ相応の様態においてであるなら)許されるべきである。しかし後者、小峰のごとき風説を流布し、社会的評価を低下させるようなレッテルを貼っておいてなんら責任を負わぬというのは、「言論」ののりを枉げる低劣な所業おこないであって、とうてい許されるべきものではない。すでに述べたように真実性・真実相当性の法理に照らしても不法行為であり、このようなものを「言論の自由」は保障しない。「ヘイター認定の自由」は、対象となる人物の言説・行動がなぜ、どのように「ヘイト」であるのかをみずからの口で語れる選ばれた者にのみ、かろうじて許され与えられる特権なのであって、そんなもん基本的人権ではない。風説を垂れ流す権利などない。語れない者には他者を非難する資格もなく、単に黙るべきである。今般小峰の為したことは、けれどもトランスジェンダー問題において活動家(TRA)がくりかえし用いてきた手口であり、小峰もまたぞろ、美しくもそれを再現したのである。「あの人はトランスヘイターだとされている」「この人はトランスヘイターらしい」――こうした風聞が、誰からも自分自身の言葉として語られることのないまま拡散し、特定の人物が排除されてゆく。何がヘイトなのか、どうヘイトなのか、誰も根拠を示さず、責任も取らない。それでいて「私はそう聞いただけだから」と謝りもしない。そんなことが通用するか! 「トランスヘイターと親しく話しているからトランスヘイターだ」「トランスヘイターの仲間だからトランスヘイターだ」――こんなものはただの党派性であって、「ヘイター」という(そう名指された他者に具体的危害を加えうる)概念を現実から遊離させた、活動家どもの観念の遊びである。親しく話していたり仲間だとされた大元の人物がなぜ「トランスヘイター」なのかについてさえ、根拠は示されることなく無限後退してゆく。現実的排除を伴いながら!

 『情況』誌の立ったメタ的な立場とは、まさにこのような言論情況に対する異議申し立てであり、だから私は『情況』編集部を支持する。「言論の自由」を支持する。件のトークイベントにおいて、少なくとも塩野谷編集長と私は、そのような立ち位置であったはずだ。それを「ヘイターVSアライ」とは、小峰は白昼夢でも見ていたのか。そんな小峰の妄想の産物である「対立図式」とやらが、あのトークイベントのどこにあったか。自分以外の登壇者を「ヘイター」呼ばわりするなど以ての外であり、小峰が降板させられたのは当然である。しかし降板して済むものではない、小峰はあのような文書を公開してしまったのだから。どうせ私のこの文章も、「ヘイターとそのお仲間の奴らがまたも結託して、アライ側に攻撃を仕掛けてきている」としか、小峰には読み取れないだろう。メタ的な対立構図とベタ的な対立構図を区別することもできず、人間を敵か味方でしか分類することもできない。党派で頭がおかしくなってしまうと、かかる悲惨がその者を訪れる。このような人物は哀憐さるべきかもしれないが、ただの通りすがりの被害者である私が、彼を容赦する理由とてない。

B. 本件の経緯

 敬称は略する。

 『情況』2024年夏号(トランスジェンダー特集)の発売直後に、同号の特集外記事の寄稿者であった批評家・小峰ひずみは「『情況』は国家か?」と題する文書を『文学+』WEB 版に公開し、それは遅れて発出された「『情況』に関する声明」とともに、『情況』編集部への批判的な論説として注目を集めた。

 各方面からの批判等に応答するため、トークイベント「深掘りトーク:『情況』トランスジェンダー特集」(阿佐ヶ谷ロフトA)が企画され、塩野谷恭輔(第6期『情況』編集長)・小谷野敦谷口一平・小峰ひずみの四名が登壇者に内定する(全員が同号に原稿を掲載している)。小峰が塩野谷に要求して、イベント名が「深掘りトーク:『情況』2024年夏号」に変更となる。打ち合わせの続くなか、小峰はイベント参加者にも配布したいとして、2024年11月6日に「『情況』編集部は、いかなる意味で「卑劣」か?」と題する文書を、ふたたび『文学+』WEB 版に公開する。これを読み、小谷野が自身の降板を申し入れ、塩野谷の判断で小峰の降板となる。やはり同号の寄稿者である千田有紀が、追加で登壇者に内定する。

 「『情況』編集部は、いかなる意味で「卑劣」か?」の中で、小峰は複数箇所にわたり、谷口の名誉(社会的評価)を毀損する、次のような叙述を記載し公表した(強調引用者):

(…)しかし、結果的に、『情況』編集部は、トランス非当事者(小峰)にトランスヘイター(と目される人物)たちをあからさまにぶつけて、ヘイターVSアライ(しかも無権代理。小峰がトランス当事者を代弁できるなどと誰が考えるのか)という対立図式を作り上げようとする条件設定を行った。(…)

(…)むろん、本稿は谷口・小谷野が「トランスヘイター」とトランス当事者やトランスジェンダーアライからみなされていること(少なくとも小谷野の寄稿文には自らが「ヘイター」と目されているという記述がある(九九頁))を所与の前提とした上で論述されている。

 したがって、私は、本討論会においてのみ、谷口・小谷野の言説が差別的であると目されていることを前提とする。そして、本討論会やそれに関わる文書において、私は両氏の言説が差別的であるという論証を拒否する。なぜなら、本討論会はその証明を行う場としての資格を欠いているからである。証明の場が適切な手続きによって構成されていない以上、私に立証責任はない。(…)

 いずれにせよ、谷口・小谷野というトランスヘイターと目される人々を討論会に呼び、対立図式に持ち込んで私に無権代理を行わせようとする『情況』編集部の無垢な方針そのものが「卑劣」である。(…)

 ちなみに「私に立証責任はない」と小峰は書いているが、事実を摘示して他人の社会的評価を低下させた場合にあって、真実性・真実相当性の抗弁は「被告側」にその立証責任がある。すなわち、谷口には「谷口がトランスヘイターだと目されていない」ことを証明する必要はなく、小峰が「谷口はトランスヘイターだと目されている」ことを(十分そう信ずるに足る確実な根拠から)立証しなければならない。

 さて、この文書の公開後、X 上で小谷野のポストを受け、小峰は次のようなポストを投稿した:

小谷野敦氏から「小峰ひずみはあたおかではないのか」と一文でX上で罵られた。拙稿への反証を何ら経ないものであった。この議論を拒絶するような態度には同じ登壇者として強い不安を覚える。したがって、私はこの罵倒に抗議し撤回を求める。また氏には軽薄な発言を繰り返さないように求める。

https://x.com/clinic_hizumi/status/1854441047251898592

 これを引用して、私は以下の批判を加えた:

拙論に対するひとことの言及もなく、私を「トランスヘイターと目されている」などと形容した、あなたの態度こそどうなんですか。誰が私をトランスヘイターだと目しているんだ。目してる奴が存在するなら、引っ張ってきてみろ。

https://x.com/Taroupho/status/1854478974463996175

 小峰が「拙稿への反証を何ら経ない」だの「議論を拒絶するような態度」だの御託をのたまうようだから、「同じ登壇者」である私に対しても、さぞやご立派な論証をくれるのであろうと期待してのことである。この時点では私は、小峰がこんな何も考えていない浅墓な男だとは夢にも思っておらず、「トランスヘイター」という侮辱的なことを書くかぎり何か用意はあるのだろう、それならそれに(X という公開の場で)反論をして、矛を収めてやろう、と思っていた。まさか、何も根拠の持ち合わせがないとは思わないではないか。返答は、議論を拒絶するような態度であった:

拙稿に対する言及、ありがとうございます。「いたら、引っ張り出してみろ」という記述が問題です。本稿に「「私たちの言説のどこが差別なのか(証明せよ)」と問う戦術の卑劣さ」という節(第七)がありますので、ご参照ください。

https://x.com/clinic_hizumi/status/1854715111027753176

 「戦術」の話など聞いちゃおらん。ここはトークイベントの会場ではない。私は、小峰が万人に対して公開した文書の中で、公然と私を「トランスヘイターと目されている」などと形容したという事実に関して、お天道様の下でその根拠を問うているだけである。おまえが何を卑劣だと思おうと当方関知せぬ、証明せよ。証明できないのに他人の悪評を流してもよいという法はない。小峰の主観(「卑劣だぁ!」)など、知ったことではない。まして小谷野発言に対して「罵られた」などと過剰反応しておいて、「トランスヘイター」というあきらかな中傷を書いたことについて、言い逃れられるとでも思ったのか。小峰よ。

 以下は私の投稿:

そんなこと以前の話でしょう。「谷口をトランスヘイターだと思う」と「谷口はトランスヘイターだと目されている」の違いもわからないんですか。前者は小峰さんの判断ですが、後者は事実問題であり風説に責任転嫁する低劣な態度ですよ。引っ張り出せないなら、あなたはただの「嘘つき」です。

https://x.com/Taroupho/status/1854790790171836902

小峰さんは「私たちの言説」にそもそも言及がないどころか、事実問題に関して例示も引証もなく「風説の流布」を行なっているのです。なんの根拠もなく他人を「悪人と目されている」とか「馬鹿と目されている」とか書いた文章を公開して、それで済むと思っているのですか。

https://x.com/Taroupho/status/1854793175833125312

 これらに対して小峰が引用を付けていたが、私が再引用したら削除してしまった。「証明せよと迫ること自体が卑劣だ」と同旨をくりかえし、「悪人や馬鹿とトランスヘイターは違う」と意味不明なことを述べ(そりゃ違うに決まっていよう、類比なんだから)、最後に「ブロックします」とか言っていたように記憶している。こんな壊れたレコードみたいな奴だとは思わなかった。おのれの吐いた言説に対する責任も果たさない、これでよう「批評家」を名乗るわ。肚に据えかねた私が、以下の要求をすることになる:

ブロックはご随意になされば宜しいですが、これまでの応答で、あなたが真実(相当)性もなく他人の社会的評価を低下させるような文章を公開されたことが明らかになりましたので、記事の削除もしくは当該記述の訂正、および謝罪文の掲示(追記)をお願いします。

https://x.com/Taroupho/status/1855110459688730907

 これに対して、『文学+』WEB 版の責任者の中沢某から「小峰さんと話してみます」という連絡があったが、その後梨の礫で、トークイベント当日の2024年11月13日の昼になって、忽然と小峰の第三文書「私の防衛戦」が、またも『文学+』WEB 版で公開された。「批判者に答える」という節があって、私に触れているが、すでに私は「応答」など求めてはいない、削除し謝罪せよと「要求」しているのである。言論のあいとして、とっくに小峰という男のことは見限っている。私は「被害者」であって「批判者」では(もう)ない。この期に及んで「批判」の応酬を待ち望むなぞ、話の次元を勘違いしてるんじゃないか。

 (ようやく)風説の存在を「証明」しているらしいから(はじめからやれや!)、そこだけ取り上げて本稿を閉じることにする。

 谷口氏は『精神科学』に寄稿した論文が査読段階で落とされ、その理由を公に公表しているが(2023年12月25日のポスト)、本件の立証についてはその査読理由に拠れば足る。すなわち、「本論文[谷口論文――小峰]は全体として中立的に、ただ哲学的問題を論じるだけであるかのようなスタンスで書かれていますが、実際には、トランスジェンダーの人々に対して中立的であるとはまったく言えないものです」「本論文は、中立を装いつつも実質的には、トランスジェンダーの人々の議論を一切考慮することなしに、トランスジェンダーに懐疑的な人々によくある考えをただ前提する、あるいは追認するものになっています」という記述からかんがみるに、査読者たちは谷口氏をヘイター(トランスジェンダーに懐疑的な人々)の一員であると考えているのは明白である。

 私の論文「「マイナス内包」としての性自認の構成」を査読者二名がリジェクトした件をもって、「谷口はトランスヘイターと目されている」ことの証明になるという。あきれて、ものも言えない。まずこの一件は、その査読が不正であるとして私が告発したという出来事である。もちろん「不正だ」というのは私の意見にすぎないが、この論文は『情況』2024年冬号に掲載されることとなり、多くの読者の目にさらされることとなった。数多くのブログ記事等も書かれているが、この論文本文を引いての「トランスヘイトだ」という指摘はこれまでただの一件も来ていない(複数の職業哲学者から「立派な論文だ」という指摘は来ているけれども)。従って査読者が不適切な読み方をしたと見るのが相当であり、だいいち査読段階の二名の評価を「風説」とは呼ばない。さらにまた、その査読者ですら、谷口を「トランスヘイター」だとは言っていない。「ヘイター(トランスジェンダーに懐疑的な人々)」と小峰は等置しているが、憎悪を煽動し当事者に悪罵や危害を加える者(ヘイター)と、単にトランスジェンダリズムに懐疑的な者とでは、月鼈げつべつ雲泥の差がある。後者は政治的な価値判断なのだから、「懐疑的な人々」はどこにでも存在しよう。こんなつまらぬ出来事を挙げて、「「トランスヘイター」とトランス当事者やトランスジェンダーアライからみなされている」(こう言うからには過半数とは言わずとも、ある程度多数の人間がそうみなしているのであろう)とは、とても言えない。

 また頑張って「証拠」をさがしてくるのであろうが、もういいよ。ずっと何も挙げられず、引っ張りに引っ張ってもまだ、こんなのしか挙げられていない時点で、私の名誉を毀損する文書を書いたときに、あんたに「谷口はトランスヘイターである」と十分信ずるに足る、なんの確実な理由もなかったことは明白なんだから。

 ノリでしょ、ノリ。あるよね、そういうの。

C. 要求

 谷口一平は、小峰ひずみ(および『文学+』WEB 版)に対し、記事「『情況』編集部は、いかなる意味で「卑劣」か?」の削除もしくは訂正、および事実に反し、谷口一平の社会的評価を低下せしめる記述の存在したことについて、謝罪文の掲示(追記)を要求する。

 以上。

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