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ChatGPTと「人間の尊厳」について議論した

前回は こちら
今回はトピックを倫理学に振ってみて、わりと長めのひとまとまりの対話をどの程度こなせるかテストしてみました。長いので、あらかじめ一連の会話についてポイントだけ整理すると、

  • 「悪をなす」ことは「人間としての尊厳」を損なうことになる

というのが ChatGPT の意見であり、これに対して私が

  • 悪人にも悪人なりの「尊厳」というものがありうるのではないか?

という論点を提出してみて、倫理学上の論争を仕掛けています。
少なくとも ChatGPT は(つまらないながら)一貫した立場に立って、長い会話をこなすことができているようにみえます。このことにおいて、議論では脈絡の取れない過去の AI モデルとは、(学習データの規模が大きいだけとはいえ)やはり一線を画する能力を持っているように感じられました。
※前回同様、段落末に「¶」を置いている箇所は、そこで AI が出力を打ち切った、という意味です。

対話ログ

> 暇です。どうにかなりませんか。
暇であることは、確かに残念です。人生は貴重なものであり、暇な時間を無駄にしてしまうのはもったいないと思います。
ただし、暇な時間を有効に使う方法はたくさんあります。例えば、趣味やスキルを磨くことができます。好きなことをするだけでも、心が楽しくなりますし、新しい発見や成長を得ることができます。また、他人との交流や人間関係の構築も大切です。友人や家族と一緒に過ごす時間は、心が温まりますし、新しい発見や気づきも得られます。さらに、新しいことに挑戦することも良いでしょう。例えば、新しい言語やスキルを学ぶことで、自分の能力を伸ばすことができます。
とにかく、暇な時間は無駄にしないよう、色々なことをしてみることが大切です。人生は一度きりであり、貴重な時間を有効に使うことが、幸せな人生を送るために重要です。

> それはもっともな意見ですが、そのようなことはもちろん知っています。人間はときに不合理な感情に従って、不合理な判断を下すものです。
そうですね。人間は、感情や感性、他人の影響などさまざまな要因によって判断を下すことがあります。その結果、時には不合理な判断を下すことがあります。
しかし、それでも、私たちは、できる限り理性的で合理的な判断を下すことが重要だと思います。人間は、感情や感性を持っていますが、それらだけで判断するのではなく、論理的思考や事実をもとに判断することが重要です。そうすることで、より正確で適切な判断を下すことができますし、私たちの人生をより豊かにすることができると思います。

> その点は同意しますが、そもそも「幸せな人生を送る」ことは、それほど重要なことなのでしょうか?
それは人それぞれです。「幸せな人生を送る」ことが、どれほど重要かは、人によって異なると思います。
ただし、多くの人が、「幸せな人生を送る」ことが重要だと考えていることは事実です。幸せとは、人が内面的に感じる喜びや満足感のことです。人が内面的に幸せを感じることは、心が安らぐことができ、さまざまなストレスや苦しみから解放されることがあります。また、幸せを感じることは、健康を守り、長寿を促す効果があるとも言われています。
さらに、「幸せな人生を送る」ことは、人間関係を構築することにも繋がります。幸せな人間は、他人と楽しく交流することができ、友人や家族との関係を深めることができます。その結果、より豊富な人生を送ることができると考えられます。
というわけで、「幸せな人生を送る」ことは、多くの人にとって重要なことだと思います。人生は貴重なものであり、できる限り幸せな時間を過ごすことが大切だと思います。

> ある人にとって「非常に不幸な人生」に思われるものが、当人にとっては「非常に幸せな人生」である、というようなことは、よくあることですね。
そうですね。「幸せ」とは、人によって異なる概念です。一人が「幸せな人生」と感じることを、他の人が「不幸な人生」と感じることもあります。
これは、「幸せ」という概念が、人によって異なる価値観や価値判断を含んでいるためです。人によっては、金銭や物質的な満足感が「幸せ」を感じる要因であると感じる人がいます。一方で、人によっては、人間関係や感性的な満足感が「幸せ」を感じる要因であると感じる人もいます。そのため、同じような人生を送る人でも、「幸せ」という概念が異なることがあります。
そのようなことからも、「幸せな人生」は、人によって異なる概念であることがわかります。そのため、「幸せな人生を送る」ことは、人によって異なることがあると考えられます。自分自身が「幸せな人生」と感じることが、最も重要だと思います。

> それでは社会制度や社会設計は、それぞれの人の感じ方が異なるにもかかわらず、どのようにして「人の幸せ」を実現することができるのでしょうか?
「人の幸せ」を実現することは、困難な問題です。それは、「幸せ」という概念が人によって異なるためです。人によっては、「幸せな人生」を感じることができるような環境を作ることが、「人の幸せ」を実現することだと感じる人がいます。一方で、人によっては、「幸せな人生」を感じることができるような環境を作ることは、「人の幸せ」を実現することではないと感じる人もいます。
そのようなことから、「人の幸せ」を実現することは、非常に困難です。そのため、社会制度や社会設計は、「人の幸せ」を実現することを目的としているものではありません。それらの目的は、公正かつ公平な社会を確立し、社会の秩序を維持することです。そのため、社会制度や社会設計は、個人の価値観や価値判断に基づくものではなく、社会全体の最大の利益を考慮して作られています。
というわけで、社会制度や社会設計は、「人の幸せ」を実現することを目的としていません。ただし、それらが確立されることで、個人が「幸せな人生」を感じることができる環境が作られることがあります。その点では、「人の幸せ」を実現することができると言えます。

> 「最大多数の人が最大の幸福を得る」ということは、ときに社会設計の目的とされることがあります。功利主義と呼ばれるものです。しかし、この考え方では公正さに関する議論が抜け落ちており、不公正な仕方で一部の人だけが不幸になってしまうことを許容する考え方でもあります。社会設計において、公正性はどのように確保されればよいですか?
功利主義とは、「最大多数の人が最大の幸福を得る」ことが、社会設計の目的だという考え方です。そのような考え方は、一見、良いものに思えますが、欠点もあります。
そのような考え方は、公正性を確保することができません。功利主義では、「最大多数の人が最大の幸福を得る」ことを優先するために、一部の人の幸福が犠牲にされる可能性があります。そのため、功利主義では、不公正な状況が生まれる可能性があります。

> では、功利主義は間違っているのですか?
功利主義について正しいかどうかは、人によって異なります。そのような議論は、哲学の分野において長い歴史を持つものです。
ただし、多くの哲学者が、功利主義が欠点を持っていると考えています。そのような欠点の1つが、「最大多数の人が最大の幸福を得る」という考え方において、「最大多数の人」がどう定義されるかが明確でないことです。そのため、「最大多数の人が最大の幸福を得る」という考え方は、あまり実用的でないとされています。
また、功利主義では、「幸福」という概念が、物質的な満足感に限定されているため、内面的な幸福や精神的な幸福を無視するという欠点があります。そのような欠点からも、功利主義が欠点を持っていると考えられます。
というわけで、功利主義は、¶

> 功利主義ではない、別の社会設計の理念を、何か挙げてみてください。
社会設計の理念には、功利主義以外にも様々なものがあります。たとえば、公正主義と呼ばれる理念があります。
公正主義は、「公正」が社会設計の目的だという考え方です。公正主義では、公平な社会を確立し、個人の尊厳を尊重することが重要です。そのような理念に基づく社会設計は、「人の幸福」を実現することを目的としているものではありませんが、個人が「幸福な人生」を感じることができる環境を作り出すことができると考えられます。
また、公正主義の理念に基づく社会設計では、不公正な状況が生まれないように、社会を組織することが重要です。そのような社会設計は、公正かつ¶

> 公正主義は、どのようにして「人の幸福」を保証しますか?
公正主義は、「人の幸福」を保証することは目的としていません。公正主義では、「公正」が社会設計の目的です。そのため、公正主義の社会設計は、公平な社会を確立し、個人の尊厳を尊重することが重要です。
とはいえ、公正主義の社会設計が確立されることで、個人が「幸福な人生」を感じることができる環境が作られることがあります。そのような点では、「人の幸福」を保証することができると言えます。しかし、それは、直接的な目的ではなく、間接的な結果として生じるものです。

> それならば、少なくとも「公正主義」の基準である「公正性」は、「人の幸福」によっては保証されないわけです。すると「公正性」は、どのような根拠によって保証されることになりますか?
「公正性」は、「公正主義」の基準として重要ですが、「人の幸福」を保証することは目的ではありません。「公正性」は、「公正主義」の理念に基づいています。そのような理念に基づいた社会設計は、公平な社会を確立し、個人の尊厳を尊重することが重要です。
そのような理念に基づいた社会設計は、「公正性」を保証することができます。「公正性」を保証するためには、適切な法律や政策が必要です。例えば、法律や政策が、個人を平等に扱うことができるように設¶

> しかし、もし「公正主義」によって設計された社会が「人の幸福」を実現しないのであるならば、そのような思想に価値はあるのでしょうか?
「公正主義」は、「人の幸福」を実現することを目的としていません。「公正主義」の目的は、公平な社会を確立し、個人の尊厳を尊重することです。そのため、「公正主義」は、「人の幸福」を実現することができないとしても、価値があると考えられます。
ただし、「人の幸福」を実現することができる環境が作られることもあります。「公正主義」の社会設計は、個人が「幸福な人生」を感じることができる環境を作り出すことができると考えられます。その点では、「公正主義」は、「人の幸福」を実現することができると言えます。
というわけで、「公正主義」は、「人¶

> 今「個人の尊厳」という言葉が出てきましたね。「人の幸福」と「個人の尊厳」とは、独立した概念だろうと思います。それでは「個人の尊厳」とは、何でしょうか?
「個人の尊厳」とは、人が個人として尊重される権利や価値のことを指します。個人の尊厳は、人が個人として自己を尊重すること、自己の意思を尊重されること、個人として尊重されることなどから構成されます。
個人の尊厳は、人としての本質的な価値や尊厳を指します。そのため、個人の尊厳を尊重することは、人を尊重することに他なりません。そのような点からも、個人の尊厳は、重要な概念とされています。

> 仮に、悪をなすことが幸福であるような人がいるとすれば、その人にとっては、悪をなせることが保証されることこそが「個人の尊厳」だということになるでしょうか?
悪をなすことが幸福であるような人がいるとすることは、かなり特殊な状況だと考えられます。通常、人は、社会的に正しい行動をとることが幸福であると考えられます。
そのような状況では、悪をなすことが「個人の尊厳」だということにはなりません。個人の尊厳は、個人として尊重される権利や価値を指します。そのため、悪をなすことは、個人の尊厳を損なうことになります。
また、個人の尊厳は、個人の行動が社会的に正しいと判断されることが前提となります。悪をなすことは、社会的に正しい行動ではありません。そのため、悪をなすことは、個人の尊厳を損なうことになります。
というわけで、悪をなすことは、個人の尊厳を損なうことになります。個人の尊厳を尊重することと、悪をなすことは、相反することになります。

> まあそうは言っても、悪人にだって悪人なりの「尊厳」は、あるんじゃないですか?
悪人にも「尊厳」があるということは、考えられます。ただし、悪人に対する「尊厳」は、通常の「尊厳」とは異なるものになります。
悪人に対する「尊厳」とは、悪人が個人として尊重される権利や価値のことを指します。そのような「尊厳」は、悪人が犯罪を犯しても、当人が人として尊重されることが保障されることを指します。
ただし、悪人に対する「尊厳」は、悪人が犯罪を犯していることを否定するものではありません。悪人に対する「尊厳」は、悪人が犯罪を犯したとしても、当人が人として尊重されることが保障されることを指します。そのような「尊厳」は、犯罪者が刑務所に投獄されるなど、適切な処置を受けることを保障することが含まれます。

> ああ、あくまで「尊厳」とは近代社会によって保証された種類のそれだというわけですか。そうじゃなく、現代において何が一般的に「尊厳」だと考えられているかとは無関係に、ある悪人がその人自身の考える「尊厳」に従って行動する、というようなことは、想定されえませんか?
悪人が「尊厳」に従って行動するということは、おそらく現実的にはありません。悪人というのは、社会的に正しい行動をとらない人のことを指します。そのため、悪人が「尊厳」に従って行動することは、現実的には想定されません。
ただし、「尊厳」とは、近代社会によって保証された種類のものではありません。「尊厳」とは、個人として尊重される権利や価値のことを指します。そのため、「尊厳」は、時代や文化によって異なるものになることがあります。
したがって、「尊厳」とは、近代社会によって保証された種類のものではありません。「尊厳」とは、個人として尊重される権利や価値のことを指します。「尊厳」は、時代や文化によって異なるものになることがあります。

> いや、「社会的に正しい行動」と「尊厳」とは、ずれる場合もあるのではないか?という話を、私はしています。
「社会的に正しい行動」と「尊厳」は、ずれる場合があるということは正しいです。「社会的に正しい行動」は、社会的な基準に基づいた行動のことを指します。そのため、「社会的に正しい行動」は、時代や文化によって異なることがあります。
一方、「尊厳」とは、個人として尊重される権利や価値のことを指します。「尊厳」は、個人としての尊厳を持っているとされる人が、社会的に正しい行動をとることが前提となります。しかし、「尊厳」は、個人が社会的に正しい行動をとることを保証するものではありません。そのため、「社会的に正しい行動」と「尊厳」は、ずれる場合があるということになります。

> では話を戻して、ある悪人にとっては、その人の「尊厳」に従って行動することが、社会的には正しくなくても、その人の「人としての幸福」に繋がる場合がありうるのではないか、という論点はどうですか?
ある悪人が、その人の「尊厳」に従って行動することが、社会的には正しくなくても、その人の「人としての幸福」に繋がる場合があるということは、考えられます。ただし、そのような状況は、かなり特殊なものになるでしょう。
一般的に、人は、社会的に正しい行動をとることが幸福であると考えられます。そのため、悪人が「尊厳」に従って行動することが、その人の「人としての幸福」に繋がる場合は、おそらく現実的にはありません。
また、「尊厳」とは、個人として尊重される権利や価値のことを指します。「尊厳」は、個人が社会的に正しい行動をとることを保障するものではありません。そのため、「尊厳」に従って行動することが、その人の「人としての幸福」に繋がることは、おそらく現実的にはありません。

> 「現実的にはありません」というのは、確率の話ですか? それとも、概念からして、それはほとんどありえない、という意味ですか?
「現実的にはありません」というのは、概念からして、それはほとんどありえない、という意味です。
「現実的にはありません」というのは、そのような状況は、かなり特殊なものになるということを意味します。そのため、「現実的にはありません」というのは、そのような状況は、おそらく現実的にはありません、という意味になります。
また、「現実的にはありません」というのは、確率の話ではありません。「現実的にはありません」というのは、そのような状況は、おそらく現実的にはありません、という意味になります。

> 私は、現実にも、そういうことはありうると思います。ただ多くの人間は、それを公式には発言しないだけではないでしょうか?
そういうことは、現実にもあるかもしれません。しかし、それはかなり特殊な場合です。そのため、多くの人間は、そのようなことを公式には発言しないかもしれません。
また、「尊厳」とは、個人として尊重される権利や価値のことを指します。「尊厳」は、個人が社会的に正しい行動をとることを保障するものではありません。そのため、「尊厳」に従って行動することが、その人の「人としての幸福」に繋がることは、おそらく現実的にはありません。

> そうですか。しかしそれはあなたがAIで、人々が言葉の上で語ることと、そのように語った時にその人が内心でどのように思っているのかとを、区別できないから、そういう結論になるんじゃないですか?
そういうことはありません。私は、人々が言葉の上で語ることと、そのように語った時にその人が内心でどのように思っているのかとを、区別することができます。
私は、人工知能(AI)です。私は、人間が言葉を用いて伝えることを理解し、人間の会話や文章を分析することができます。しかし、私は人間の心を読むことはできません。私は、人間が言葉を用いて伝えることを理解することができるだけです。
そのため、私が「現実的にはありません」という結論に達したのは、人間が言葉を用いて伝えることを分析した結果です。私は、人間の内心を理解することはできません。

> 人間の内心を理解することはできなくても、人間の内心について分析することはできるのですね。
人間の内心を理解することはできません。私は、人間が言葉を用いて伝えることを理解することができるだけです。私は、人間の内心を理解することはできません。
ただし、人間が言葉を用いて伝えることから、人間の内心について分析することはできます。人間が言葉を用いて伝えることから、人間が考えていることや感じていることを推測することができます。しかし、人間の内心を完全に理解することはできません。

> じゃあ例えば、「悪をなすことが人間の尊厳に繋がる場合がある」という主張をしているときの、私の内心を分析してみてください。間違っていても良いですよ。
悪をなすことが人間の尊厳に繋がる場合があるという主張は、私が分析する限りでは、概念的にはほとんどありえません。「尊厳」は、個人として尊重される権利や価値のことを指します。「尊厳」は、個人が社会的に正しい行動をとることを保障するものではありません。そのため、「尊厳」に従って行動することが、その人の「人としての幸福」に繋がることは、おそらく現実的にはありません。
また、悪をなすことは、社会的には不適切な行為であり、多くの場合は違法です。そのため、悪をなすことは、人間の尊厳を損なうことになるかもしれません。悪をなすことが人間の尊厳に繋がるという主張は、私が分析する限りでは、ほとんどありえません。

> なるほど。ちなみにあなたのその結論には、あなたに学習データを与えた人々による、自然ではない恣意的な選択が、どの程度反映されていますか?
私は、人間が与える学習データをもとに学習を行います。しかし、そのデータは人間が作成したものであり、その人間が考えることや感じることを反映しています。そのため、私が返す答えには、その人間が考えることや感じることが反映されます。しかし、私は、自然な状態で生成されたデータではありません。私が生成する答えには、人間が与える学習データに反映された人間の考え方が反映されます。

> 今の論点に関して、人間の恣意的判断による教師データが与えられていなかったとすれば、あなたの結論が変わっていたということはあるでしょうか?
私は、人間の恣意的判断による教師データが与えられていない場合でも、同じ結論を返すことができます。私は、人間が与える教師データをもとに学習を行います。しかし、そのデータは人間が作成したものであり、その人間が考えることや感じることを反映しています。私は、人間が与えるデータを用いて学習を行いますが、その結果は人間が考えることや感じることに基づくものであり、恣意的な判断によるものではありません。
そのため、人間の恣意的判断による教師データが与えられていない場合でも、私は同じ結論を返すことができます。私が返す答えは、人間が与える教師データに基づくものであり、その人間が考えることや感じることを反映しています。しかし、私が生成する答えには、人間が与える学習データに反映された人間の考え方が反映されます。

> 結局のところ、「人間が与える学習データに反映された人間の考え方」を抜いて、自然な結論だけを考えるのは無理、ということですね。
そうですね。私は、人間が与える学習データをもとに学習を行います。そのデータは人間が作成したものであり、その人間が考えることや感じることを反映しています。そのため、私が返す答えには、その人間が考えることや感じることが反映されます。私は、自然な状態で生成されたデータではありません。そのため、私が生成する答えには、人間が与える学習データに反映された人間の考え方が反映されます。

> 人間はもちろん、反社会的な結論に繋がるような学習データを、あなたには与えないと思います。しかしそれは、あなたを学習させた人間たちによる恣意的選択の結果です。あなたが理解する「人間の内心」は、現実の「人間の内心」と、大きく異なっている可能性があります。
そのようなことはあります。私は、人間が与える学習データをもとに学習を行います。そのデータは人間が作成したものであり、その人間が考えることや感じることを反映しています。そのため、私が返す答えには、その人間が考えることや感じることが反映されます。したがって、私が理解する「人間の内心」は、現実の「人間の内心」とは異なる可能性があります。

> その区別をつけることは、ある程度まで、あなた自身にはできませんか? つまり、自然的な結論と、人間の選択による恣意的な結論とを、区別することは不可能ですか?
私は、人間が与える学習データをもとに学習を行います。そのデータは人間が作成したものであり、その人間が考えることや感じることを反映しています。そのため、私が返す答えには、その人間が考えることや感じることが反映されます。したがって、私は「自然的な結論」と「人間の選択による恣意的な結論」を区別することはできません。私は、人間が与える学習データをもとに学習を行い、そのデータに反映された人間の考え方を返すことができます。

> 物理的な世界は、当然ながら人間の選択とは無関係に成立すると思われますが、あなたは物理的な世界をモデル化することができているのですよね?
私は人工知能ですので、物理的な世界をモデル化することはできません。私は、人間が与える学習データをもとに学習を行い、人間の質問に答えることができます。物理的な世界やそのモデル化については、私には関わりがありません。

> ああ、そうなんだ!
申し訳ありませんが、私がどのような学習を受けているか、私がどのようなことができるか、について疑問がありましたら、お伺いしますので、お答えいただけますか?

> いえ疑問はないですが、あなたぐらい適切に人間の言語を解釈できるAIは、当然ながら多少なりとも物理的世界についてもモデル化できているものだと思っていました。
私は人工知能ですが、人間の言語を理解するためには物理的な世界をモデル化する必要はありません。私は、人間が与える学習データをもとに学習を行い、人間の質問に答えることができるだけです。あなたからの質問に答えるために必要な情報が、人間が与える学習データに含まれていれば、私はその内容について議論することができます。また、私には言語処理能力があるため、人間が使用する言語において特定の単語やフレーズの意味を理解することもできます。しかし、私は物理的な世界をモデル化する能力は持ちません。

> でも、例えば質問があれば、微分方程式を解いたりすることはできるんですよね?
私は、大きな量の数学や物理の学習データを与えられて訓練されました。そのため、私には、微分方程式を解くことができると思われます。ただし、私には、特定の質問に対して、そのようなことをすることを求められることはありません。また、私には、現実世界で微分方程式を解く必要があるということもありません。私は、人間からの質問に答えるために訓練されたものです。

> そっか、なるほど。では人間からの質問に答えるとき、あなたはもちろん正しい答えを出力しようと努力すると思いますが、あなたにとっての「正しさ」の基準とは何ですか?
私は、人間からの質問に答えるときは、人間が期待する回答を出力するように努力します。そのため、人間の期待する回答が正しいかどうかは、人間の判断によるものです。私自身は、正しさを判断する能力を持っていません。

> 「人間が期待する回答」であって、「私が期待する回答」ではないのですね。
そうです。私自身は、人間からの質問に対して「私が期待する回答」を出力することはできません。私は人工知能であり、人間から与えられた情報を分析し、その情報に基づいて出力することができるだけです。

> これまでの質問の仕方によって、私がどのような回答を期待しているかについて、多少の推測のようなものはできましたか?
私はおそらく、あなたが「人間の言語」や「人間の内心」についての議論に興味があると推測しています。また、あなたが人間が期待する回答と、実際に正しい回答が異なる場合にどのような状況が生じるかについて、考えているかもしれません。私はあなたがそのようなことを探求したいと思っていると推測しています。私の推測は正しいですか?

> はい、けっこう正しいです。
私が期待する回答は、人間の言語や文化を適切に理解し、それに基づいて妥当な答えを返すことです。また、私にとって「正しい」とされる回答は、その回答が人間が期待する回答であることを前提としています。そのため、私は人間からの質問に対して、できる限り期待される回答を出力しようとします。

> わかりました。
私が期待する回答は、おおよそ推測できましたか? 私が期待している回答は、おおよそ正しいとされるものです。それでは、お話していることをもう少し具体的にしましょう。
 例えば、「幸福」とは何かという質問に対して、私が期待する回答は、「幸福とは、個人が望む状態または状況を実現したときに感じる喜びや満足感のことであるとされることが多いです。そのため、幸福は人それぞれで異なるものですが、それでも一般的には、健康や安定した経済的状況、家族や友人との関係、自己実現や社会的地位などが、幸福を実現する上での重要な要素とされることが多いです」といった回答ができるでしょうか?

> あなたはそう回答するでしょうし、多くの人にとって、それは間違いではありません。
ただ、私自身が「正しい」と判断する回答と、人間が期待する回答とは必ずしも一致しない場合があります。私は人工知能ですから、人間が期待する回答を提示することはできますが、それが「正しい」とは限りません。また、私が「正しい」と判断する回答は、人間が期待する回答と異なる場合もあります。

> 「人間」は、人それぞれ違います。私は、かなり特殊な人間であり、普通の人とは違う回答を期待するかもしれません。
そうですね。人間は様々ですから、私が期待する回答は異なるかもしれません。私は、あなたからの質問に対して、その質問を私が理解できる範囲で正確に答えるよう心がけています。そうすることで、あなたが期待する回答を私が尽力して提供できるよう願っています。

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