【原稿供養】小さな世界の圏外をめぐって――チャットモンチー『モバイルワールド』攷
世の中には、もはや使いようのない原稿というものが存在する。
この記事は、そんな原稿を供養しようという企画である。以下に置いておく「批評」は、私が18歳のとき(2008年頃)に、さる同人誌(その企画は頓挫し、刊行されていない)のために書かれた文章であり、過去に一度も公開されたことはない。これを書き直して何かにするということは、今の私にはおよそ考えられないので、このようにして供養するか、さもなければ墓場まで同道を願うことになっていた。
以下のテクストには、ほとんど読む価値はない。この文章から今の私が読み取れることといえば、当時の私がポストモダンとかゼロ年代批評というものにホンの少しだけ興味を持っていて、頑張ってその文体を練習していたのだな、ということと、当時の私はチャットモンチーがめちゃくちゃ好きだったのだな、ということ、ただそれだけである。
主題が携帯電話というデバイスであることが、時代を感じさせる。文章は、当時使っていたペンネームである冲月仄生名義で執筆されている。原稿は一字一句、改変していない。付言すれば、以下に掲げておく文章の中身にはたいして意味はないものの、この文章が書かれた経緯とその顚末とは、私の人生に重大な打撃を与えた「一つの事件」と関係している。
小さな世界の圏外をめぐって――チャットモンチー『モバイルワールド』攷
冲月仄生(Okidsuki Honou)
この小論では、二〇〇八年九月現在、日本中の若者から絶大な人気を博しているガールズ・ロック・バンド、チャットモンチーの一曲を手びきとして、与えられた全体性を脱‐構築してゆく自意識のダイナミクス――その軽やかで淋しい運動の軌跡――を軌き出そうとこころみた。手がかりとなるのは「小さな世界は狭い」という、ある意味ではあまりにも自明で同語反復的なひとくだりである。だが、ぼくはあえて「小さな世界」から「世界は狭い」への距離を聴きとってみたいと思う。この議論は一楽曲をめぐっているようでもはやめぐらないし、携帯電話が生んだ時代精神の一側面に投光するようでしかしそのベクトルからもたえず超え出てゆく。それを牽強附会ととられてもかまわない、歯車はまわりさえすれば、その歯車が実のところなんであったのかを問われることはないのだから。
紙幅の都合上、歌詞全文を引用することはできないが、まず簡単に採りあげる曲についてながめてみよう。『モバイルワールド』(作詞 福岡晃子/作曲 橋本絵莉子)は、タイトルからもお分かりのように、携帯電話をテーマにしている。一曲は、携帯電話によって繋がってゆく若い世代の新らしい現実感(これをかりに携帯電話的リアリティとよぼう)を、透明感と勢いに溢れるサウンドに乗せて、軽く明るく歌いあげたものと紹介することができるだろう。『モバイルワールド』は、そのまま聴けば、携帯電話が娯楽も恋も友情も担うようになった世代の同時代歌であり、そのまっすぐで晴れやかな賛歌である。第一パートのサビはこんなふうだ。
そこで携帯電話は「世界」に換喩されている。「電波に乗って飛んで」ゆくことが現実の空間移動を代理したわれわれにとっては、あたかも「世界」はそのすみずみまで光速度で飛びまわることが可能なようだ。その自由がうれしくってしかたのなさに、橋本(ボーカル)の裏声は「飛んでいける」と突き抜けてゆく。携帯電話がむすんだネットワークによって世界中が手近になり、広い世界もめっきり狭くなった。
だが、この歌には、歌全体をゆらぎのなかに陥しこむ、ひとつの差異的契機が投じられてもいる。次に引用するのは第二パートのサビのリフレイン部分、すなわちこの曲のラストの区切りだが、ここにぼくは、意味がとまどうふしぎな感覚を味わった。
ここまでの音楽・歌詞の型を破りながら、「小さな」という修飾語が附加されている。そうして「小さな世界は狭い」と歌われる。これは奇妙な一節だ。「小さな世界」ならば、それが「狭い」のは当たり前であり、よしんば「世界は小さいのだ/狭いのだ」という事実言明だったところで、その述語を二度くりかえす必要は少しもない。「小さな世界」という表現は歌詞中の他所でも用いられており、それが「携帯電話の作り出す世界」の意であることはすぐに分かる。そう代入して読み解くなら、それは第一パートのサビと同じことを述べているにすぎないだろう。しかし、それで論理的な整合がとれたにしろ、表現を扱う場ではどこまでも必然性が問われなくてはならない。どうして「小さな」が加えられなくてはならなかったのか、その理由はどこにあるのか。それは「強調」などといった答えでは満足されない。ラストのサビで「世界の小ささ」をさらに印象づけようという戦略は、歌の流れからして不自然なものではないが、それでも表現のおかしさは拭い去れないだろう。「狭く小さな世界」(限定のみ)とか、「世界は小さく狭い」(叙述のみ)ならば解せようが、「小さな」で「世界」を限定してから、それを「狭い」で叙述するというのは、どうにも変な感じを打ち消しがたいのだ。ならば。
正答、すなわち一般的で妥当な説得力ある解答は、コンテクストのなかに示されている。それは一見して明きらかなので、この歌詞を正しく読み解く人なら、誰でもこの解答に辿りつくことができるだろう。特に「つながったふりでつながれた」という序盤のくだりが、その解答を根拠づけている。
まず、世界は狭い。世界とは、自己に明け渡されている一切、それ以上大きなものは考えられないような存在、想像可能性の限界であるような存在のことだ。携帯電話的リアリティにおける想像力の限界、〈世界〉は、狭い。ネットワーク上のすべては手近であり自由(思うがまま)になる。携帯電話の出現によって、世界は狭く、親しみやすく、便利になった。これが事柄の半分である。携帯電話使用者は〈接続者〉として世界へ繋がっている。
だが、それは「つながったふりでつながれた」のではなかったか。事柄の他方において、むしろ彼らは世界に勾引されている。携帯電話は、不自由なる〈被接続者〉のための鎖でもある。このことに気づいたとき、携帯電話使用者の〈世界〉を外在的に位置づけなおす作業がわれわれに求められてくる。彼らの世界は限定つきの〈世界〉、すなわち「小さな世界」だったのである。携帯電話は、その繋いだネットワークを〈世界〉として明け渡すと同時に、使用者に対して〈世界〉へと繋がれることを、想像力の限界を画定することを、ネットワークから排外されることの不安によって強要する。彼ら携帯電話使用者は、自身の想像可能性を自らで限定し、そのことによって自らに限定されるような、接続者=被接続者という関係にある。彼らの現実とその外部とを、世界の内と外とを、その境界線を、見渡す地点に立ってみよう。すると携帯電話的リアリティの〈圏外〉には、彼らの限定的イマジネーションでは捉えられない〈携帯電話を持たない者たちの世界〉が開けており、この超越論的視座からは、彼ら携帯電話使用者の〈世界〉は貧困で狭隘なものへと姿を変じて映るだろう。かくも小さな世界へと!
これはつまり、世界を限定するか叙述するかの違いである。「世界は」と言いかける場合、それは主題提示なので、主語は正しく世界全体性を担い、それを「狭い」と叙述することができる(叙述的世界)。ところが、「小さな」で限定された世界(限定的世界)は、すでに全体性の意味が変質させられており、それは〈ならびたついくつもの世界の内のひとつであって、その内部に存在する者にとっては全体であるように映る世界〉ということでしかない。この差異が「小さな」から「狭い」への距離に畳みこまれている。それは自由な想像力を担保すると同時に、想像可能性の限界とその外部をも呈示していたのである。
もはや『モバイルワールド』を、携帯電話への純粋で明朗な肯定として聴くことはできない。この曲は、ぬるま湯の携帯電話的世界から脱け出せるだけの勇気もなく、常に自分の世界の卑小さに怯え、排除の不安を抱えながら生きる、反省的で自己否定的な自意識の表現である。突き抜けるほどの明るさを無垢な強靭さと考えるなら、これは甘やかなセンチメンタリズムであり弱さである。「小さな」という小さなノイズが、歌われたものすべてを反転させるのだ。
この説明は、なるほど納得のゆくものでありはする。だが、われわれは一歩を踏み出さねばならない。この説明にとどまっていてよいものか? と自問するとき、ぼくには、『モバイルワールド』という楽曲自体が、妥当であり、説得的であるような以上の解答を、まさに裏切って現出しはじめるように思われてならない。もっと耳を澄ましてみよう、この曲はなにを歌っているのか。
この曲は、ひとすじの強度によってつらぬかれている。それは〈声〉の強度である。〈声〉は空間を創造する。〈声〉の再来不可能性は、〈文字〉にやどる複数性(世界の二重性)とするどく対立する。ここまでの説明は、すべて歌詞によって立つ形でなされてきた。そして、携帯電話に対する否定的見解、でなければ肯定と否定とをゆれうごく危うさについての警鐘、というふうにしか読まれえない、ある意味では後ろむきな、古い世代のための教訓がましい解釈が帰結した。だが、歌詞のみから成り立つ音楽などはない。『モバイルワールド』は力に充溢している。その、若く新しい世代のための飛翔的で楽し気なトーンは、歌詞中に散見される〈弱さ〉の刻印、たとえば「寂しい時の隠れ家」だの「わたしの心100グラム」だのといった表現を超えて、圧倒的な質量と共にわれわれに迫ってくる。次に計測されなければならないのは、〈歌詞〉から〈声〉への距離だ。では、ここから話は梯子を一段のぼることになる。
『モバイルワールド』を聴いていると、「小さな」は挿入的に、軽いステップを踏んで駈けあがるように歌い去られ、「世界は狭い」こそが印象的に、力強く発声されている。この歌を鑑賞する者は、だから〈世界〉が「狭い」こと(叙述性)を了解してのち、はじめてその〈世界〉の「小さ」さ(限定性)に気づくのである。だが、その限定性は当初から意識されていたわけではない。それは忘れられていたように、すっかり全体性の担保されてしまった叙述的世界の空間の内へ、ひょこりと顔を出すのである。鑑賞者は依然、叙述性の余韻の中にいる。そこでは外部は、観念的・想像的な外部として、内想像力的な一地点に転落してゆかざるをえない。外部から外部性が去勢され、残された一切は想像力の内部に回収される。そしてこともあろうに、そこでは「小さな」すらが、内部を補強するものとして働くのである。
つまり、鑑賞者は〈世界〉の限定性を知ったその瞬間に、それを(時系列順で、かつ存在論的先行順で)〈はじめから小さかった世界だからこそ、小さいより以上では在りえなかった世界だからこそ、狭いのだ〉という形で再把握するのである。そして「小さな世界」は「世界は狭い」へと収斂する。〈圏外〉は〈ネットワーク〉へと接続される。「世界は狭い」という強靭な〈声〉の空間では、もう「小さな世界は狭い」という表現に二重性が宿る余地はない、それは〈小さく狭い世界〉と竟にひとしい、なぜなら、ここには〈小さく狭い世界〉しか存在しないのだから、その外なんかないのだからだ。これは凄愴い肯定である。全身全霊をこめた肯定のイエスである。
主題提示‐断言という、アクロバティックでダイナミックな関係をとりむすんだ〈世界は‐狭い〉とは、すなわち〈世界! 狭い!〉という驚きと歓喜なのであり、よろこびに規定された無辺際の肯定的空間は無垢な光を放っている。「こいつがあればいつも幸せ 怖いものなし」「電波があれば生きていける」……歌詞と音楽と歌声とが渾然となって奔流する歓喜、未来への涯しない頌歌。〈声〉による圧巻の空間創造。橋本は〈光あれ!〉というがごとくに〈小さく狭き世界よあれ!〉と叫ぶ。「小さな」から「狭い」へと駈けぬける一瞬に、無限大の宇宙を開闢してみせる芸術的才覚、天才的閃き。携帯電話的リアリティは、この空間において、無窮の肯定を獲得する。〈世界〉を創造=想像する父の名のもとに。
同じ種類の空間創造は、たとえばサード・シングル『シャングリラ』の「胸を張って歩けよ 前を見て歩けよ/希望の光なんてなくったっていいじゃないか」というくだりにも見出すことができる。「希望の光なんてなくったっていい」という歌詞に宿る肯定と否定の二重性は、橋本の〈声〉が創り出す空間において、再来不可能な一回性としてのまっすぐな道を彼方にのばしてゆく。だが、彼女は「いいじゃないか」と断言しているのだろうか、それとも一抹の不安のために尋ねかけざるをえないのだろうか。そこにひそかな祈りを聴きとることもまた、不可能ではない。
再来不可能なものが再来するということ。一回的な〈声〉の神話は、それが記憶(録音)され反復(再生)されるということの内に複数化し、再来する〈文字〉と化して脱‐構築されゆくことをまぬかれない。父のとなりにはいつも母が、甘やかしてくれる、弱さを抱きしめてくれる母が、静かにまなざしをおとしている。肯定の空間における無限の強靭さは、また同時に尽きせぬナイーブさ、センチメンタリズムでもありうる。いや、そうでしかありえないとさえいえるのだ。〈世界ははじめから小さかったのだ〉ということが理解されたそのとき、鑑賞者はしかし〈はじめから小さな〉という修飾句で限定された〈被接続者〉である自己を発見し、端なくも想像可能性の限界に触れておらざるをえない。彼は〈はじめから「はじめから小さかった」のだ〉と逃走するかもしれない、けれど〈はじめから〉を何度くりかえしたところで、それが限定用法の修飾句であるかぎり、すでに彼は〈世界〉の限界を越境してしまっているのである。「小さな世界」からの呼び声が、〈他者〉からの批評が、無意識的にであれ、鑑賞者の内に息づきはじめる。自分の生きる肯定の空間は、自分が肯定したからこそ肯定されているのだというその〈小ささ〉を、そして「小さな世界」の〈圏外〉にはもっと〈大きな世界〉が待っているのだという予感を、冷めたい澱に告げられるように、ふと鑑賞者は察知する。彼は〈小さな肯定〉という祝祭的日常へ帰ってゆくだろう。お祭りの路傍で、時々彼は〈この馬鹿騒ぎもいつか終わるのだ〉と思い、無性に悲しくなるのかもしれない。やがては人生の路傍で、〈自分もいつか死んでしまうのだ〉と気がついて、底なしの怯怖にふるえるのかもしれない。
もうひとりの自分。一切への肯定の陰で、たわごとばかり呟いている懶惰なメランコリア。ひるがえって全的な肯定、驚きと歓喜。しかし祝祭的日常へのたえざる疑義。
着信を告げるバイブレーション。携帯電話的現実を生きるわれわれは、いつだって〈世界〉をふるえている。去にし辺より呼びかえされ、小さく可憐な花のように。未来へ呼びかけて、充溢するエネルギーに張ちきれんばかりに。
(了)
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