あたらしい古典を求めて

 鷲田清一は「折々のことば」(朝日新聞 2020年10月15日)でイタロルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」から「若いときに読んだ本のなかでももっとも重要なものを、人生のある時間に、もう一度読んでみることが大切だ」という一節をひき、古典は「集団や個人の無意識の記憶の襲の内にまでしみ込むことで時代を潜り抜けてきた」からこそ「読む人の経験を分類する枠、価値を測る尺度ともなってきた」とその役割について紹介している。だからその古典のもつ枠や尺度という絶対的、普遍的な基準と、時を経て経験を重ねてきた読者が自らを照らし合わせることで「自分がどう変わったかを知る、別のあたらしい出来事が起こる」と続くのだが、では未だ時代を潜り抜けていない現代小説をいかに「集団や個人の無意識の記憶の髪の内にまでしみ込」ませていくのか、といえば、それはひとえに同時代を伴走する読者の手にゆだねられている。そしてその読者のなかでも、小説の読みかたについて訓練を重ねてきた批評家とよばれる人々のことばは、現代小説をどのように読み解いていくのか、その見解について多くの示唆を与えてくれる。

 先日、そんな批評家のことばをめぐって、興味深い事件が起きた。

 『文學界』の「新人小説月評」を担当する「在野研究者」荒木優太が、「岸政彦「大阪の西は全部海」(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」と同誌三月号に寄稿したその一文が編集部によって「勝手に削除された」と Twitter で告発したのだ。荒木はつづけて「あとで長い文章を出すと思いますが、これは編集権の濫用であり、極めて横暴なものです。『文學界』編集部を強く非離します。」と投稿。『文學界』編集部もすぐに「編集部の認識はまったく異なります。」「批評としてあまりに乱暴すぎるのでもう少し丁寧に書くか、それでなければ削除してほしい旨申し入れました。」「批評として成立しておらず、このままでは掲載できないと判断しそう伝えました。」と公式アカウントで反応し、さらに「最低限必要な寄稿者と編集部との信頼関係が失われた」との理由で荒木は連載からの降板を同誌編集長から告げられるに至った。

 削除にいたるまでの経緯については荒木自身が『マガジン航』に発表した「削除から考える文芸時評の倫理」、「『文學界』編集部に贈る言葉」に詳しいが、『文學界』編集部からの返答がない現状では、文芸批評家の栗原裕一郎が「荒木の言い分を聞く限りでは編集部の対応が理不尽に思えるが、荒木のやり方もいかにも無茶で、即断しかねるところだ」(「文芸最前線に異常あり」「週刊新潮」2021年2月25日号)と述べる通りで、かつての純文学論争がそうであったように、たとえば『文學界』誌上に充分な議論の場を設ける必要があるのではないだろうか。

 ともあれ、なにより印象的だったのは、自身も「新人小説月評」で評者を務めたことのある栗原がツイートしたように、この騒動に反応した少なからぬ作家たちから、これまでの「新人小説月評」に対する「作家の怨嗟がいろいろ流れて」きたことだ。ときに言葉足らずとも読める評が見受けられるのも、短期間にまとまった数の作品を読み、限られた紙幅で的確な評を書くことを強いられる「新人小説月評」欄のもつ構造上の問題であることは否定できない。しかしだからこそ「小説内に書かれた事実に基づき、その小説がそのかたちをしている理由を推理してゆくこと。それが最低限の批評家の仕事だと僕は思う」(「『文學界』3月号、新人小説月評に腹が立ったという話」『note』(2020年2月8日)と樋口恭介が指摘するように、批評家と小説家はお互いの仕事に敬意を払いながら、丁寧に作品と向き合いことばを紡ぐことで、信頼関係を築いていく必要があるだろう。なれ合いや付度のない批評のことばによって、その作品が様々な読者の「読み」に耐えうる強度を持つか否かを測ること。あらたな枠や尺度となる古典になりうる作品を見つけ出すという営為は、現代小説を読むひとつの醍醐味でもある。
(初出:『令和2年度 江古田文学会会報』)


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