積極生リハビリ2|そうなると、「死」こそ完璧と言うことになるけど。。?

とにかく生きる意味がよくわかんなくなって、藁をも縋る思いで「生きる意味」とかいう脳死ワードでググっている中で、今更ながらこの本に出会い、読んでみることにした。

今まで触れてこなかった仏教の考えに、何か答えがあるのでは?!と期待できる読書体験だった。

それなら仏教で目指される「悟り」を、私も当面の生きる意味として拝借すれば、なんかそれっぽく積極的に生きられるのでは、と期待が膨らむ。

と言うことで、仏教について少し掘ってみることにした。

沢山文字を読むほどの気力はないので、図書館で図説みたいな本を片っ端から読んでみた浅知恵からたどり着いた個人的な結論は、「『死』こそ完璧で目指したくなってしまう状態なんですけど」と、積極的に生きることとは真逆の結論だった。

仏教で目指す悟りの境地である「涅槃寂静」って、わかりやすく表現すると

わるい感情の煩悩を「消滅させる・止める・出てこないように」すること

マンガ原始仏典・ブッダの教え

と言うことらしい。

人間はからだの存在する限り、感じるのは仕方ない、でもそれをどう捉えるかは自分次第、みたいな解説も併せてよく見かけた。

その捉え方を超コントロールして、何があっても微動だにしない状態が悟った状態であると。

私にはそれは、死んでいることと何が違うのかわからない。というか、こんなに苦しい毎日を何とか生き抜かなくて良い分、死んでいる状態の方がマシとさえ思ってしまう。いや、積極的に死のうとは思わないけど。怖いしめんどいので。

新しい考えを得られたし、深掘りする中で昔からみんな同じような悩みにぶち当たってるんだなと、先人たちの中に戦友を見つけられたのは心強さに繋がったが、余計に深く悩むきっかけになった気もする。絶望。

日常の中で行を積むなかで、体験からしか理解できませんよと言う解説も沢山みたので、惰性で生きる中での発酵待ちくらいはしようかなとは思うが、こんなにも広く頼りにされる教えでさえもやっつけられなかった生きる怠さは、次に何かをする気力も削がれた体験である。

さてどうしたものか。


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