飲まないっすねえ
フリーランスになりたての頃のことである。
ある建築家のもとへ仕事で訪れた。その建築家もフリーで、自宅で仕事をしていた。
彼は私に向かって「仕事しながら飲んでる?」と聞いてきた。えっと思って問い返したら「いやあ家で一人で仕事してるとつい飲んじゃうよねえ」と、“君もそうでしょ?”という口調の答えが返ってきた。
昼間っから、しかも仕事をしながら飲むなんてとても考えられなかったから、というより飲み始めたら絶対に仕事なんて放り投げてしまうから、私は曖昧な薄笑いで「飲まないっすねえ」などと答えた。
あの若い建築家はその後どうしただろう。30年前のことだ。よもや依存症になどなっていないだろうな。
コロナでテレワークが定着し、おかげで家で朝から飲むようになってしまったという話を、たまーに聞く。手持ち無沙汰だから、寂しいから、手の届くところにあったから、人はテレワークしながら酒を飲む。そういう人たちは確かにいるようだ。
テレワークの罠だな。
仕事では誰だって理不尽な目に合う。
自分の責任でないのに怒られ、言われた通りやっただけなのに責任を取らされ、ここで自分が我慢すれば丸く収まるとぐっと飲み込んで頭を下げる。お天道様はきっと見てくれているはずだと自分に言い聞かせながら。
そんなとき、隣の席の後輩が「気持ち、わかるっす」と話を聞いてくれたり、廊下ですれ違った同期が背中を叩いて励ましてくれる、それだけでどんなに救われることか。
「ちょっと聞いてくれよ~」と1分間だけでも愚痴をこぼせることのありがたさよ。解決しなくていい。ただ聞いてほしいだけなのだ。
だがテレワークではそうはいかない。フリーランスもそうだ。
誰もすれ違いざまに愚痴を聞いて励ましたりしてくれないから、一人で理不尽な思いをごくりと飲み込み、腹の中で消化しなくてはならないのだ。
これが案外きつい。特に一人暮らしでは。だから酒を飲んでネットを見て忘れる、という道に向かう。
考えてみればフリーランスとして長くやってきた私は、案外、ストレス耐性が高いというか、無神経というか、鈍感なのだろう。外注の下請けみたいな最末端での仕事が多いので、ときにはなんでオレがと思わないこともない状況にも直面するが、それでも過ぎてしまえばどうってことはないということを学んで、消化してきた。
たまにブチ切れはするものの、年齢を重ねるに従って穏やかさを保つべく自分をコントロールするすべも身につけたと思う。
つまり繊細すぎる人はテレワークにはあんまり向かないような気がする。
ちょっと鈍感なぐらいのほうがテレワークには向いているんじゃないかな。今さら気づいたのかよと言われそうだが。(2022.01.25)