渋谷の大学は
本日は共通テストである。
共通一次試験とかいう制度すらなかった時代に大学を受験した昭和の私は、今もってこの共通テストの仕組みがよくわからない。
これを受けておかないと、大学受験そのものができないということなのか? そもそもいったい何のためにあるのだ? そのあたりから理解できていないのだ。
まあ、よい。私が受験するわけではない。受験するのは娘なのだ。娘に任せておけばよい。
それに我が家には東大現役合格で今は塾講師のアルバイトもしている息子がいる。わからないことがあれば全部息子が片付けてくれる。私がどんな手出しをしたところでじゃまにしかならない。
要するに受験で親ができることなど何もないのだ。
二つのK、つまり経済と健康だけだ、親が手助けできるのは。あとは黙って従えばいい。
実は娘は電車が苦手である。どこ行きに乗ってどこで乗り換えて、というのがさっぱりできない。そもそも理解しようとすらしない。
もっとも都内の電車事情は、都内に住んでいる人間ですら戸惑う。受験の時に私は横浜の叔母の家に世話になったが、当時と比べれば電車の路線は激しく複雑になった。あの頃はまだましだった。
今日の共通テストの会場は十条駅下車だった。
我が家の駅からは池袋に出てJRに乗り換えだ。乗り換えるのは埼京線だが、各停もあれば快速もあり、快速でも停まるからどれに乗ってもいいのだが、初見はやっぱり戸惑う。加えて湘南新宿ラインも走っていて、これに乗っていいものかどうかも戸惑う。
そもそも池袋に行くにも、池袋行きに新木場行きに横浜中華街行きがあって、戸惑う。そのどれも池袋駅には停車するのだが、全部場所の違う池袋駅ということで、なぜ池袋駅がこんなに何種類もあるのかが分からない。まさしくラビリンスだ。
娘はこういう複雑怪奇な電車網の理解をとうに諦めているので、一人で移動できないのだ。
もっとも私だって上京したてのころ、渋谷から千葉の市川に行くとき、新宿で乗り換えればいいのか代々木で乗り換えればいいのがずーっと考え込んでどうしても分からず、結局どっちで乗り換えても同じなのだということも理解できなかったから、今の娘を笑うことはできない。
以前、京王線のつつじヶ丘に住んでいたとき、上京したばかりらしい青年に「この電車に乗って新宿に行けますか」と都営線直通本八幡行きを指しながら聞かれたことがあった。もちろん行けますよと答えたのだが、青年はそれでも不安だったらしく「これで新宿でJRに乗り換えできるんでしょうか」と重ねて聞いてきた。
住んでいるものにとっては当たり前すぎることでも、初めてならば不安だろう。あのときの青年も今頃は立派なおっさんになって「昔はそんなこともわからないで電車に乗っていたなあ」と思い出しているだろう。
そんなわけで娘は一人で電車に乗ることなどはなから諦めているから、息子とヨメと私の3人で手分けして付き添いの当番を決めた。今日から始まる受験シーズン本番、どの会場には誰が付き添っていくかを予定したのである。2月前半は息子も大学の試験があるので、そこは私とヨメが動く。試験が終わったら息子が動く。
もっとも今日の会場についても、息子は頼みもしないのにわざわざ昨日、下見に行って道順の動画を撮ってきてくれた。一家を挙げて、娘の受験のサポート体制を構築したのである。
初っぱなである今日の共通テストの付き添いは私だ。先陣を切るのは、何事も気持ちいいものだ。
息子の運転するクルマに乗って駅まで行く。「受験は公共交通機関が鉄則。マイカー移動でのアクシデントに救済措置はない」と息子。まったくその通りである。
もっとも電車も決して平穏ではなく、共通テストの日を狙って痴漢が出没するという。被害に遭った女子高生も、試験に遅れられないから届け出るのをためらうという計算だそうだ。
まったく卑劣なことである。本当に腹立たしい。
娘に対しては、だから電車の中では意識的に私に話しかけるようにしろと伝えた。寒いねでも、何時に着くのかなでも、何でもいい。とにかく私に話しかけるようにすれば、親子であることを示せる。その逆はダメだ。坊主頭の怪しいオヤジが女子高生にしつこく話しかけているように見られてしまうからな。
娘も、以前は「おじさんどこ行くの、って言おうか」と恐ろしいことを言って脅してきたことがある。決してそんなことはするな、いくら顔がそっくりでも私が逮捕されてしまいかねないと娘に言い聞かせる。
池袋駅で埼京線に乗り換えて十条へ。
数年前、あるドクターにインタビューするために帝京大学医学部を訪ねた。その時以来の十条駅である。十条なんてまったく縁がないから人生二度目の十条ということになる。
実は大学に入学してすぐの頃、都内在住の仲間から十条がいかに危険なエリアかということを聞かされた。田舎から出てきたばかりの小僧にとってそれは衝撃的で、十条は危ないということがすっかり刷り込まれてしまったのだ。今に至るもその記憶は残っていて、だから無意識に十条エリアに足を運ぶことは避けてきたのだろう。
そんな危険なエリアを、娘1人で歩かせるわけにはいかない。私は娘と並んで共通テスト会場へと向かったのである。
会場の入り口には警備員のばばあが立っていて、路上で帰りの待ち合わせについて確認している娘と私に向かって「立ち止まるな」「道を空けろ」とうるさい。頭にきた。いったいぜんたいあんたはどんな法的根拠に基づいて命令を下すのかねとねじ込んでやろうかと思ったが、私が騒ぎを起こして娘に迷惑をかけてどうすると思いとどまる。
息子によれば、昨日の下見でもその警備ばばあはいたらしく、動画を撮っている姿を不審がられて、誰何されたそうだ。まあ、確かに相当に不審だったに違いない。職務に忠実な警備ばばあなのだ。
娘を送り届けて、いったん家まで帰る。帰って仕事だ。昨日取材した、ちょっと難しい原稿を仕上げるのだ。
帰ったら大きな事件のニュースが飛び込んできた。
東大の試験会場で人が刺されたというのだ。
東大だからといって息子が犯人ではなく、試験会場だからといって娘が被害者というわけではない。それでも人ごとのような気がせず、なんという気の毒なことにと同情する。
事情が分かるにつれて犯人のあまりの短絡ぶり、アホさに呆れる。
医者になろうと東大を目指したが学力が追いつかず、世をはかなんだって、そもそも医者になるのに東大に行く必要はないし、だいたい東大医学部を出たら医者になんかならなくて研究者か医療技官の道を選ぶだろう。
医者になりたいなら十条駅から帝京大学医学部に通えばいい。オレのかかりつけのクリニックの院長だって帝京大卒だ。
この事件について日刊スポーツは「猛勉強しても報われない象徴が東大」という興味深い指摘をしていた。実は息子にとってこれは人ごとではないのである。
東大生である息子は、東大生ということだけで人に絡まれる。直接何らかの被害を受けたことはないが、周囲の仲間や先輩はけっこうそういう理不尽な思いを経験している。
例えば飲み屋で騒いでいるとどこの学生だと問われて、東大と答えると「東大のくせに」「だから東大は」と詰められるのである。それは心底うんざりする経験であり、時には危険を感じるほどなのだ。
だから彼らは学習し、次からこう答える。「渋谷の大学です」と。
するとたいがいの大人は「ああ、だからバカなんだ」と納得の顔をする。渋谷の大学を卒業した私も、やはり納得する。
息子は「決してこれは嘘ではない。身を守るためだ」と強調する。確かに嘘ではないし仕方のない自衛だと思う。
だから今日の東大の刺傷事件に対しても人ごとではなく、背筋の寒くなる思いをするのだろう。まあ、アホな高校生の短絡的な行動で、甘く言えば青春時代のやらかしと片付ける程度のことだとは思うが。
原稿を書き終えた後はアルビレックス新潟の激励会の様子をネット配信で見て興奮し、そして共通テストの終了時間に合わせて再び十条に向かう。
十条は縁のなかった街ではあったが、ざっと駅前を徘徊したら実に魅力的な飲み屋が点在しており、なるほど、これは一度飲みに来なければと考えを改める。古い路面店のある街というのは、今や希少だ。
テスト会場出口で娘を待っていると、同じような風情のお父さんたちがパラパラと数人。朝の警備ばばあはいなくなっていて、オレに絡まれるのを恐れて逃げたのだろうと推測する。
時刻になり、受験生たちがわらわらと出てきて、それが全員女子であることに愕く。こ、こ、ここは女子だけの会場だったのか。狭い道路は辺り一面女子高生で埋め尽くされ、その中で坊主頭のおっさんは呆然と立ち尽くすのであった。これではまるで私が不審者じゃないか。
娘を見つけて拾い上げ、電車に乗る。
車中、偶然に娘は塾の仲間数人に遭遇する。別会場でやはり共通テストを受けてきた子たちのようだ。
お互いに「あれっ」と声を上げた瞬間、私は娘と離れて知らん顔をして吊り革を握る。女子高生にとって、父親と一緒に電車に乗っているところを友だちに目撃されるのは、何としてでも避けなければならない事態だからだ。
知らん顔をしながら、窓に映る娘と友だちの様子を眺める。
いよいよ受験本番がスタートして、それぞれがそれなりに高揚し、そして疲れているのだろう。試験の手応えには触れないように気を付けながら他愛もない話に興じる彼女たちの姿に、この先も頑張れとエールを送る。
地元の駅に着いたら息子が車をロータリーに停めて待ってくれていた。その緑の車体とスモールライトは実に暖かく見えて、ホッとする。我が家は一家を挙げて、家族全員、これから娘の闘いを支えるのだ。
息子の車に乗り込もうとしたら、その前に停まっているタクシーを警察官が取り囲んでいる。すわ、ここでも受験生を狙ったテロか。体を張って娘を守るぞ。
意を決してタクシーをのぞき込んだら、後部座席にはベロベロに酔っ払ったおっさんが1人。泥酔客を乗せて埒があかなくなった運転手が、駅前交番から警官を呼んだところだったのだろう。
「いきなり警官がこっちに駆け寄ってきたのでびびったよー」と息子は興奮気味に話すのだった。(2022.01.15)