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グラデーションのない「オセロゲーム」-4

実は、わたしがここに書いていることと、facebookに友達限定で書いていることは、別人(多重人格)かというほど、違います。

「独白(自分が思っていること)」と「表現(第三者に向けて発すること)」を明確に別けているからです。

「表と裏」を批判しているわたしも、表と裏があるんですよね。

たしかに、よそ行きは「品のいい顔をしたい」と思うけれど、
飲み屋では「くだを巻いている」という部分もあります。

ただ、「作品にはメッセージを込めない」という姿勢の問題もあるんです。
この文章は作品だと思って書いているので。

あるメッセージには、「賛成」か「反対」と2つの反応しか起こりません。
それに対して、「仲間」は絶賛し、「敵」は反発するという。
それでは、分断を加速するだけにしかならない。
戦争の解決ではなく、戦争に加担する結果にしかならない。


話は脱線しますが、
件の社会問題について、あるジャーナリストのS氏は、徹底抗戦で問題を追求し、ついにひっくり返しそうなところに来ています。
ジャーナリズムの場合、それはそれで有効な場合もあるというか、
わたしとは立場は違いますが、「すごいな」と感服しています。
わたし個人は「旗はふるな」と思っているけど、「もしふるなら、ふりぬくべし」というか。

いや、S氏は、仲間に対して旗を振っているわけではないんですよね。自身の信念に従って、問題を追及しているだけで。

ともあれ、「表現はこうあるべき」という角度も、ちょっと角度を変えれば、真実なんていくらでもある。わたし自身の中にも分裂して存在していて、揺れています。

話を戻して、裏アカウントでもないんですが、友達限定で書いていたのは、社会への鬱憤でした。

特定の個人へというより、社会にうずまく「正義中毒」に対してですね。
でも、ふと気づくと、【「正義中毒を批判している自分」が、「正義中毒」になっている】ことに気づきました。

「正義」は本当にドラッグだと、心底、ゾッとしました。

二極に割れて戦争している。
その双方が、双方の「正義」に根ざして、その旗のもとに動いている。
それを第三極から批判するわたしも、結局、別の正義に根ざしている。
すべて、大差がない。

そして、皆、同じ顔をしている。

この中毒から逃れるには、「正義」には近づかないことです。
近づくから摂取してしまう。感染してしまう。

でも、それで皆がノンポリになったら、、、
それこそ、社会の空洞化はもっと加速するんじゃないかとも思うので、、、もう答えなんてありません。

なにひとつ立派なことも言えず、自分でもどうしていいかもわからない。

「とにかく今は解毒を」と思っていますが、だからと言って、「無菌状態で生活することがいい」とも、どうしても思えず。
その先には、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』が待っているだけなので。


締めの言葉が思いつきません。

いつも、偉そうに社会批評を書こうと書きはじめ、
最終的には、何も断言できない。

ただ、「メッセージを発さない」ことを是として「表現」をしている身としては、これでいいような気もします。

でも、それも「自己正当化」でしかありませんよね。
「自己正当化」と「他者批判」は常にセットでひっくり返るので、
その罠から逃れたいと思っているのですが。

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