![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/162525034/rectangle_large_type_2_790f752d18b4ebab6ad17836e2bcc4db.jpeg?width=1200)
グラデーションのない「オセロゲーム」-2
世界は、2極に別れて対立、ケンカ、戦争が絶えません。
双方がおのおのの「正義」を語ります。
そして、敵対する相手を「悪」とします。
自分は「真実」を知っていて(自分の信じる側は「真実」を語っていて)、相手は「ウソをついている」と。
今日、朝ドラ『おむすび』を見ていて思いました。
主人公の結は、自分の好み(信念)で、ギャルの恰好をしています。
ただ、通いはじめた栄養士の専門学校では、その恰好(メイク・ネイル)はふさわしくありません。風紀的な意味ではなく、物理的な衛生面からです。
それを先生から指摘されます。
この場面、多くの人は「先生が正しい」と感じると思いますが、
人によっては「先生、ウザい」「パワハラ」と思う人もいるかもしれません。
「先生が何を意図して言っているか」が結には伝わっていますし、
その場にいる誰もがそれを共有しているので、あれが「パワハラ」と言われることはありません。
ただ、その意図が理解できない人がいるとしたら、、、。
あるいは、結の側に、趣味以上の理由があるとしたら(このケースでは、いい例が思いつきませんが、ムリやりあげれば、「病気などの関係で、厚く化粧をしなくてはならない」などですかね)。
よく、パワハラやセクハラについて、
「被害者が被害と言ったら、それは被害だ」という意見があります。
同時に「被害者が被害だと言ったって、それが本当かはわからない」という意見もあります。
ドキュメンタリーをやってきた経験を総動員して言いますが、
「どちらも正しく」、「どちらか一方だけが正しい」ということはありません。
細かく説明します。
「被害者が被害と言ったら、それは被害だ」という意見は、「やった側がどう思っているか」が問題ではなく、「受けた側がどう感じたか」が重要という意見です。
ひとは、悪意がなくても、場合によっては善意であっても、誰かを傷つけてしまうことがある。そういう文脈の意味では「正しい」。
また、「セカンド・ハラスメント」と言いますが、「勇気をもって被害を訴えても、信じてもらえずもみ消されてしまう」という例が多いのも事実です。そこから、この意見は強く支持されます。
ただ、同時に、それらが「思い込み」という場合もあります。
朝ドラの例で言えば、先生の意図を理解できず、その「威圧感」への反発から、「暴力だ」と言った場合、「受けた側がどう感じたか」が絶対と言えるでしょうか?
「正義」か「悪」か、「真実」か「ウソ」か、という2つの選択肢で議論されることが、これほどまでに増えていることが、わたしは怖くてなりません。
ドキュメンタリーの手法に「インタビュー」というものがあります。
「相手の意見を聞く」ことです。
その際、3つの層をインタビュアーは想定します。
①「事実を語っている」
②「ウソをついている」
「話を盛っている」を①とするか、②とするかは難しいところですが。それはどちらとも言えます。
③つめに、「その人の中での真実を語っている」という場合があるんです。
記憶は、いや過去に限らず認識は、「不確かなもの」です。
本人の中で「絶対的な真実」と思っていることが、別の角度から視たら、
誤認だったということはよくあります。
その際、ジャーナリズム的な作家は「事実」を追求しようとするし、
ドキュメンタリー的な「人間」を追求する作家は、「個人の中での真実」を重視するでしょう。
これも、「ジャーナリズム」か「ドキュメンタリー」かという二元論で簡単に別けられるわけではなく、無数のグラデーションが存在します。
例えば、ジャーナリズム的な主題なのに、自分が「伝えたいメッセージ」を強調するために、「事実」よりも「事実とは限らない、検証を経ていない、個人の中での真実」を、まるで「事実」のように扱う態度もよく見られます。
頭がグルグルするような話ですが、これさえ、その作家の中では「真実」なのです。「事実を捻じ曲げて利用している」という意識はないでしょう。「真実を伝えている」という意識でやっている場合が、ほとんどだと思います。
まとめると、「事実」と「そう思い込んでいる真実」が、一致する時ももちろんありますが、「一致しない時もある」ということです。
これはドキュメンタリー作りに限った話ではありません。
朝ドラの例で説明するなら、
主人公:結のお姉ちゃんは「ギャル」になりました。警察に補導されたりもしたので、家族も周りも「不良になった」と思っていました。その時点では、誰もが「お姉ちゃんがグレた」というのが「真実」だったでしょう。
でも、実は、それは「神戸の震災で亡くなった親友がなりたかっただろうギャルになって、代わりに生きている」姿であり、警察に補導されたのは、「カツアゲされている子を守るため」にやったこと。「それで、カツアゲ犯に怪我をさせてしまった」というのが事実でした。
世界は「見えない視点」で溢れています。
その中のひとつを「真実」と誰もが思い込んで生きている。
もちろん、わたしもです。
それが「当事者」の中にもマダラにあり、
それを「見る人」の中にもマダラにある。
自分のことを考えてみてください、
「誠実さ」と「ズルさ」なんて、毎日グルグルしてるでしょう?
未熟なわたしだけの感覚でしょうか?
「どちらが正義か」「どちらが悪か」という思考法そのものがわたしは怖いのです。
誠実にやったことでも暴力になる。
悪意をもってやったことでも、キレイに見えることだってある。
世界はマダラです。
グラデーションの中にあるものです。
くものりんかくは、それを見るひとの数だけ存在する。
どうか、どんな時でも、冷静さを。
そして、対立ではなく、対話を。
そう祈りながら。
![](https://assets.st-note.com/img/1732064107-OactQFRdKbT5GNWAeZr0xylo.jpg?width=1200)