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だれもくれ ないからあなたに わたしから ヴァレンタインは 母の日として

最初、
【 誰もくれないから代わりにわたしから ヴァレンタインは母の日として】
と詠んだ。

こう書くと、短歌だと思われないというか、575のリズムで読んでもらえない。(まぁ、585なのだけれど。)

ゆえに、あえて、ひらがなで書き、5のところで区切った。
これでリズムは出る。

それに、
「代わりにわたしから」だと、とても「わかりやすい」半面、
情感というか、詩情が薄れる。

ので、ちょっとキザに、「あなたに」にしてみた。
これで、恋愛の詩なんじゃないかと、ちょっとドキッとする。
そこからひっくり返って、下の句でオチ。

推敲の過程というのは、なかなか興味深く、
完成した作品では霧消してしまう味わいがある。

この歌だと、
「だれもくれない」と言っている主人公は「男だろう」と思うのが一般的。
【ヴァレンタインは女が男にあげるもの】という前提が、一応、あるから。(「男尊女卑だ」とか、「異性愛中心主義だ」とかいう声は、とりあえず横に置くとして。)

でも、下の句を「ヴァレンタインは 父の日として」とすると、
娘がモテないおっさんの父に「わたしくらいは、、、」という、
涙なくしては読めないような歌に変わる。

もし、そう限定的に読ませたいなら、
上の句も「だれもあげない」にした方が、わかりやすくはある。
ふたりの間の「距離」を強調することになるので。
この場合、「代わりに」に戻したほうが、そのツンデレ感ははっきり描ける。
→【だれもあげ ないから代わりに わたしから ヴァレンタインは 父の日として】

ただ、その場合も、あえて「だれもくれない」とすることで、父とのこころの「近さ」が強調され、父の想いを「わがこと」と思っているような深みが入る。

→【だれもくれ ないからあなたに わたしから ヴァレンタインは 父の日として】

ただ、意味はとりづらくなる(スッと入ってこなくなる)ので、
「わかりやすさ」と「味わい」とは相反するもの。
むずかしいなぁと。


もちろん、その主体を息子と想像することも自由。
でも、その場合、寂寥感がハンパなく感じられるから不思議。

「だれもくれない」が、息子にも、父にもかかりうるからだろうか。
その両方にかかると読むこともできる。
→【(わたしにも 父にも) だれもくれ ないからあなたに わたしから ヴァレンタインは 父の日として】

あ~、涙で前が見えないのです。

という変奏曲。

ハッピー・ヴァレンタイン❤








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