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グラデーションのない「オセロゲーム」-3
この文章は、特定の何かの事象に「当てつけ」て書いているのではありません。
とはいえ、「いま、これをまとめよう」と思った社会事象があったのは確かです。
その件について、自分の立場は明かしません。
問題は、「白」か「黒」か、というより、「白か黒か、と考えてしまうこと」にあると思っているからです。
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きっかけとなった問題に対して、いつもと違う情報収集の仕方をしてみました。
「自分と違う立場のひと」がどう考えているのか、内容的にも、思考の過程としても、理解したかったからです。
普段と違うルートで情報を収集していくと、自分と違う立場の方こそ正しく見えてくる。
これには驚きました。わたし自身が、ドキュメンタリーをやってきた経験から、情報リテラシーには自負があったからです。
それがグラついてくる。
それ以上に、「こうあってほしい」という考えが、自分の中に強くあったことにも気づきました。
ドキュメンタリーづくりにおいて、「伝えたいメッセージ」というものは、
目を濁らせるものでしかないからです。色眼鏡(偏見)というか。
「いかにその色眼鏡を捨ててフラットに見られるのか」が、
ドキュメンタリーの、少なくともわたしの思うドキュメンタリーの基本です。
「こうあってほしい」という願望があると、その目的に都合のいいように情報を収集してしまいます。
「プロパガンダ」というやつです。
ドキュメンタリー作家には左派の人が多いため、それは「権力者が使うもの」と思っている人も多いですが、
左派側が自分たちのイデオロギーのために、社会運動のために使うことも多いのが実情です。
哀しいかな、人間の情報収集の仕方(思考方法)の多くがそうであるように、
マスメディアであろうが、ネットメディア、個人メディアであろうが、この力学は変わりません。思想の右・左も関係ありません。
2極化は、その結果として起こる現象です。
どちらかが「ウソ」で、どちらかが「ホント」のことを言っているというより、
それぞれが、それぞれの角度から「ホント」を言い、
それに都合のいい情報を集める。
それによって、その「ホント」は、より「確かなもの」になっていきます。
人間は揺れたり、不安になったりしたくない生き物です。
悩みはストレスになるからです。
だから、より強く自分の信念を固めてくれる意見(それを言う人)を信奉します。
繰り返しますが、思想の右・左も何も関係ありません。人間の誰もがそうです。
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その例に漏れず、わたしも、無意識に、「自分の立場に都合の悪い意見」を見ないようにしていたことに気づきました。
その後、悩んで、「自分なりの答え」には辿りつきましたが、「それが100%正しい」と言い切る確証まではありません。
「概ねこうだろう」という意見がありながら、「100%」と言えないのは、「見えていないピース(部分)」があるからです。
その「見えていないピース」に対して、人は「信じたい方向」に穴埋めします。塗りつぶすというか。そうやって自分の意見を固めます。
でも、それをできるだけしないようにするのが、ドキュメンタリーの視方です。
もちろん、そんなこと言っていたら、「いつまで経っても、100%には至れない」ので、ある程度のところで「これが確からしい」と決めることを悪いことだとは思いませんが、「厳密に言えば」そういうことなんです。
なぜ、そんな神経質なことを言うかと言えば、【「信じたい方向」に穴埋めした部分】が、「違っている」こともよくあるからです。当たり前です。「信じたい側」に寄せているわけですから。
現実はマダラです。人間はマダラです。
誠実さとズルさは、同じ人間の中にいつだって渦巻いています。
ホコロビなんて膨大にあります。
で、その「見えていないピース(部分)」に「都合の悪いもの」があった時、
反対側の立場の人は「ほら見たことか」と言います。
「白じゃない」≒「黒だ」と。
そうやって、ひっくり返ります。
「自分は何もわかっていなかった」と立場を変える人も多いでしょう。
そして、時に、自分の非を認め、考えを柔軟に変えることが大切な時もあります。
これは本当に難しいところですが、同時に、「自分の信じてきたもの」を考え抜くことも大事です。
人間はマラダ、世界はマダラだからです。
「白」の横には「黒」があり、「黒」の横には「白」があります。
その全体の中で、「確からしさ」を固めていくのが、
ドキュメンタリーの思考法です。
【自分は情報リテラシーの専門家だから、自分にしかできない「正しい思考法」を伝えよう】と偉そうに上から目線で書き始めた文章の帰結が、
原点に返って、「わからない」に留まろう、「悩もう」「安易に結論を出さずに踏ん張る足腰を」と自分に言い聞かせているところです。
もちろん、暫定的な答えは自分の中にはあるのですが、それは「暫定」なので、「変わる」かもしれない。「変わらない」と思うことこそ、怖いことだと思っています。
そういう「わからない」という人が増えたほうが、「じゃあ、実際はどうなの?」という意見に辿り着きやすくなるようにも思うんですが、、、、。
なんて言うのも、自己正当化でしょうかね?
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