オープンレター資料として 24

オープンレター署名者のひとり、橋迫瑞穂氏が訴えられたというツイートがありました。

数年前だったか、私は橋迫氏とツイッターでなんどかやりとりをした結果、とても会話が成立しないのでお互いにブロックしましょう、といって終わらせたことがあります。

そのときの話はホームレスに関することでした。何かの災害のおり、避難所にやってきたホームレスが受け入れを拒否された出来事があり、そのことをめぐっての議論でした。
橋迫氏は「無条件に受け入れるべき。そうしないのはホームレス差別だ」とおっしゃっていたので、私は少し違うのではといいました。
ホームレスには感染症をもつ患者が多いので、受け入れるのはいいが、一般の人たちとはわけて、検査をするべきだ、というのが私の考えでした。すると橋迫氏は「それが差別だ」といいます。私は「感染症をもつホームレスを制限なしに受け入れると避難所にいる健康な人(とくに抵抗力のない子供たち)が感染するおそれがあるので、差別ではない。正しい区別だ」といいました。それ以上話がすすまないので、そこでもうやめようとなったのですが、コロナ禍の現在、どちらの言い分が蓋然性が高いかといえば、いうまでもないでしょう。

ちなみにあのコルカタのマザーテレサのホスピスでは感染症にたいして無頓着で、ホームレスたちをどんどんと受け入れていました。その結果、病床では感染者と非感染者がまざりあい、感染症がひろがっていくのをとめることができなかった、という報告もあります。

ウィキの記述ではこうです。
つ1991年にカルカッタにあるテレサの施設「死を待つ人の家」を訪れた、イギリスの医学雑誌ランセットの編集委員であるロビン・フォックスは、そこで患者に行われていた医療ケアを「でたらめ」(haphazard) と表現している。修道女とボランティアたちにはまったく医学的知識がない者もいたが、ホスピスであるこの施設には医者がいないため、彼女たちが患者のケアについて決定権を持っていたのである。フォックスはこの施設の環境に関してマザー・テレサの責任を重くみるとともに、テレサの修道会が治療の可能な患者と不可能な患者の区別をつけていないことに注目している。つまり、助かる可能性のあるひとでも、感染や処置不足により死の危険に晒されてしまうということである。

フォックスもこの「死を待つ人の家」で修道女たちは清潔さを保ち、患者の傷や痛みによくつきあい、親切心にあふれていることは認めるのだが、彼女たちが患者の苦痛に対処する手段は「憂慮すべきほど不十分」だと述べている。この施設の処方集には強力な鎮痛剤がなく、フォックスはこれこそがマザー・テレサの取り組みと、一般的なホスピス運動をはっきりと区別するものだと考えた。フォックスの観察では、注射針はお湯ですすぎ洗いされるのみで殺菌が十分ではなく、結核を患った患者も施設内で隔離されていなかった。修道会の施設における、このような不注意な医療ケアを報告する文書は枚挙にいとまがない。

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