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放浪 ニ

世間では、認知症の人のいわゆる「徘徊」について、傍から見て理由はわからなくても本人は目的を持って歩いているのだから「徘徊」というのは失礼だ、これからは「ひとり歩き」と言い換えよう、という動きがあるようだが、うちの場合「ひとり歩き」では、なんだかしっくりこない。

夫をひとりで歩かせたら行方不明になるかもしれない危険を私が感じてからは心配で、夫ひとりで外を歩かせたことはないからだ。

夫が怒って自ら家を出ていくときも、私が夫ひとりで出ていくようしむけたときも、夫の安全は守れるが夫からは見えにくい距離をとって後をつけている。

私が夫を家から出すのは、ケンカをしたとき、ケンカの原因をすぐに忘れる夫と言い争うと、堂々巡りのやり取りに、ふたりで煮詰まっていき、さらに自分はなにも悪くないとのたまう夫に私がブチ切れるので、双方、特に私が頭を冷やすためだ。煮えたぎった頭で憎々しい相手の安全を守る、これにはかなりの忍耐が必要だ。殺気と冷静さ併せ持つ私は、どのような顔で夫の背中を見ているのだろうか。

外に出るのではなく、私が別の部屋に行き夫の前からしばらく姿を隠して頭を冷やそうとしても、夫はすぐに私を探しはじめ、見つからなければ、ひとりで外に出てしまうので、どの道、私も外に出ることになる。

「ひとりで帰るんだ」と決意して夫は家を出ていく。だが、帰るところはどこかと聞かれたら、ちゃんと答えることはできない。生家があった場所を言うこともあるが、その場所も夫の中であやふやになってきている。

ひとり街中をさまよい歩く夫の姿は、自分の中でおこっている得体の知れない変化、それによる漠然としたけれども切実な不安を、知らない道を迷いながらひとりで歩くことでリアルな不安として肌で感じている、私にはそんなふうに見えている。

またこれは、私から夫への仕返しでもある。「ひとりでできる」と言う夫に、いくら言葉を使っても、現実を理解させることは無理だ。ならば、ひとりで歩かせ、夫に現実を突きつける。夫が歩き疲れて弱気になり自ら私に助けを求めない限り、私が手を差し伸べることはない。それも私の気に食わない頼み方だったり、一度や二度頼まれたぐらいでは、助けない。自分でもなかなか意地が悪いなと思うが、夫が認知症になる以前から積もり積もった夫に対する私のわだかまりが顔を出す。家族介護が厄介である所以だ。

周囲の人や車に迷惑が及びそうだったり、夫の身に危険を感じれば、それを回避するために動くが、回避できれば再び距離をとる。

付かず離れず、私は夫を見守る。

夫が今までのようにはできない自分とどう折り合いをつけるのか、はたまた死ぬまで折り合えないのか。

自分の生き方を決められるのは、自分しかいない。

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