放浪 三
街中をひとりさまよい歩きながら夫は怒りを鎮めていく。後ろを歩く私の存在に気づいた夫が「一緒に来てほしい」と私に頼む。
「ひとりで帰れる」と怒って家を出ていった夫が私の手をとる。
「もう、なにもできない。なにもわからない」と夫が老いていく自分を嘆く。
夫の嘆きの厄介なところは「人の世話にはならない、寂しくてもひとりで生きる」という考えにつながるところである。そこには、夫のプライドや孤独や絶望などが入り混じっている。けれども、その考えは私には看過できない。夫の死、そして私が夫にとって用無しであることを意味するからだ。
「もう、ひとりでちゃんとできない。でも、誰かに手伝ってもらえれば、それなりにできる」
「ひとりではダメでも、ふたりならまだまだ大丈夫」
私は夫にそう思ってほしい。私は夫の役に立ちたいのだ。
「(私と)ふたりで生きる」そのことを夫の心に刻みつけるためのやりとりを私たちは幾度も繰り返してきた。
冒頭のやりとりも夫が私に「ふたりで生きていく」と約束したときの一場面である。
たが、このやりとりを繰り返す行為が、私にはかなり堪える。
夫が「ふたりで生きていく」と言ってくれるたびに私は、もう夫が「ひとりで生きる」と家を出て行くことはなくなるのではないかと期待をする。けれども、数日後、早ければ次の日、もっと早ければ数時間後には、その期待は空振りだったのかと、振り出しに戻されるようなガッカリを味わうのだ。
夫の老いゆく自分への嘆きに付き合う、このしんどいさをあと何度繰り返せばいいのだろうか。
受け入れ難い自分自身の変化を受け入れることは、夫にはムリなのだろうか。
さっきのこともすぐに忘れる夫には何度同じようなやりとりを繰り返しても「ふたりで生きる」と心に刻むことは不可能なのだろか。
昔の自分同様の「できる」は思い切り、今の自分の「できる」を大切にする。私が望む、夫の姿。でもそれは、夫が望む自分の姿ではない。
夫の放浪のお付き合いは、いつまで続くのだろうか。
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