一人っ子、親を見る
50歳、独身、一人っ子のたね子です。
さて、
前回、一人っ子、父が病気になるってお話を書きましたが、2年の余命が、治療の効果や新薬認可などで、5年が経過して、どうにか元気に過ごしていました。
前回までは↓
そんな時、なんと、母にがんが見つかるのです!
父はもう働ける状態ではなかったので、母と私で、生活を回していたわけですが、普通に働いて、父の面倒をみて、ものすごく苦労をしていたんだと思いました。
母と検査結果を聞きに病院に行ったのですが、結果を聞いたとき、私は泣いていました。
どっちが患者かわからないくらいで。
しかも、かなり進行していて、そこの病院では出来ないので、他の病院に行ってくださいとのことで。
もう、現実なのか、なんなのか、訳もわからなくなってしまい、谷底にでも落とされたようでした。
いくら、のんきなたね子でも、さすがに、悩みました。
いっそのこと、家に火をつけて3人で死んだ方がいいのかななんて思ってしまうくらい。
母が病気になるなんて、想像してなかったので、頭が状況についていけません。
しかし、亡き祖母のことを思い出すのです。
祖母は、母を早くに亡くし、弟が戦死。娘も幼い頃に病気で亡くし、夫も40代で病気になり早くに他界。3歳から17歳の子供を4人、一人で育てて、なんとも苦労した人生でした。
そんな祖母がいつも、「2本足で立っていられる時はだいたい大丈夫」と言っていたのです。
そう!
アントニオ猪木の「元気があればなんでもできる」です!!
あっ、私、元気じゃん!
死ぬ気でやれってことなんだと思い、一人っ子で、独身で、2人の面倒を覚悟をに決めます。
母は、父とは違う少し遠い大学病院に行くことになりました。ありがたいことに、先生が手術して、全摘すれば大丈夫と言ってくださり、少し希望が見えてきます。
母が「お父さんを見送らないといけないし、孫を見るまで死ねない」と言って
母は手術が出来るなら、取ってしまっていいと即決!
すぐに治療が始まります。
こうなったら、たね子、やるしかありません!
それから、父が入院しているときは、会社から父の病院まで、車で一時間弱。そこから、母の病院まで一時間、家まで一時間。
これを仕事しながら通うことになるのです。
(幸い会社は自由がきいたので)
一生に両親を面倒見るときが来るとしたら、たまたま、ちょっと早く、一気に来てしまったと自分に言い聞かせ頑張ります。
私は告知の時、母の前で泣いてしまったことを反省し、2度と親の前では泣かないと決めました。
泣きたいのは母だし、私に申し訳ないと思う両親の気持ちを考えると、自分のことだけを考えて欲しいと思い、いつもの、陽気なのんきなたね子でいました。
全然、余裕だよって感じで。
しかしながら、真っ暗な家に帰ると、いつか、こうなるんだなぁと思うと寂しくて、なんて不幸なの私…って一瞬思うけど、結局、2人のものを洗濯したり、やることが色々多すぎて、疲れて、考える暇もなく、時間が経っていました。
そう、こういう時は色々考えてはいけないのです!
眠れない夜には韓国ドラマを。
こんなときの為に、見ていたのかも。
それで、サンウにハマったのかもとさえ思ってしまいます。
特に、撮影見学ツアーまで行った、映画「悲しみよりもっと悲しい話」が悲しすぎて。
見たら絶対泣く→すっきり→疲れて寝る。
私の悲しみもすべて流してくれるようで、泣くのはデトックスでしょうか?
悲しいときはひとりで思いっきり泣け!
一人でどうしようと思っても、ありがたいことに、親の兄弟や親戚も助けてくれたり、友達も力になってくれます。
ある時、友達に「一人で大変だし、結婚しておけばよかったよ。」って話したら、「いや、旦那や子供いたら、さらに、やること増えるよ。親の面倒も見れない状況ってこともあるしね。」って言われて、あっ、これでよかったのかって、妙に納得してしまいました。
神様が、越えられない試練は与えないと言いますから、これはたね子にとっては、越えなければいけない試練なんだと。
父は入退院を繰り返し、家で面倒を見たりもしてたのですが、母は、まず手術で2ヶ月入院。一旦退院して、少し時間を空けて、また2ヶ月入院しました。
幸いなことに、母は転移もしていなくて、とりあえずは治って帰ってくることになりました。
そして、その年の年末、二人が退院し、3人でお正月を迎えることになりました。
長くなったので、次に続きます。