ミレニアム・マンボ(映画漫評①)
台湾映画は日本と馴染み深い。それを知ったのも映画からだったし、日本人から見ても台湾はどこか親近感のある国だ。日本の統治下にあった時代から、それが終わってからの台湾はつねに揺れ動いていった。「悲情城市」(89)や「牯嶺街少年殺人事件」(91)など、その時代を背景にして作られた映画は数多い。それは大学の映画の講義でも学んだ。そこで重要なのが日本の描かれ方である。エドワード・ヤンの「ヤンヤン 夏の思い出」(00)では、台湾人の男が出張で東京に訪れるシーンがある。それが残念ながらあまり日本的ではなく、海外から見た日本というイメージで見えてしまい、居心地が悪かった。それに比べてホウ・シャオシェンの「ミレニアム・マンボ」(01)は主人公の女が往還する北海道の夕張はいいショットだった。雪が積もった町の景色から、部屋の窓から見える電車が通り過ぎるところまでが、自然に映って見えた。これは、日本を理解して撮っていると思った。かえって、作品の骨太である台湾で撮られたクラブや散らかった部屋が、感じ悪く見えて勿体ない。それをホウ・シャオシェンは狙っている理由は分かるのだが。
タイトルの「ミレニアム・マンボ」(原題:千禧曼波)のミレニアムとは、西暦2000年を指して言う。マンボは、ダンスの踊りの種類だろう。作品の公式サイトでは「Y2K時代、台北の夜」と書かれているが、Y(years) 2(2000)K(キロ?)ということで2000年代の若者文化を象徴している。西暦2000年、あの時、何があったのか。「ミレニアム・マンボ」を見る前の自分は、ヴィジュアルからして、きっとウォン・カーワァイの「欲望の翼」(90)のようなのだろうと思った。それを望んでいた。しかし、先行きも後先も淡々と過ぎていくものだった。見ている間にそれを分かるところがいい瞬間だ。同じものは二度やってこない。人間でも映画でも、それに居合わせて見方も合わせていく。二回目に見直すと、よく言われることだが、はじめとは違った見方ができるようになる。一度見たという落ち着きもあるせいか、一つ一つのシーンやカット、画面上の細部のディテールに目が行く。見終えた時はすんなり自分の解釈を持てるようになった。それは最初に書いた日本の描かれ方だけではなく、作品が伝える意味やY2K時代の台湾のカルチャーでもある。台湾と日本は近しい関係であり、映画から見える細工も、共通するものが多い。ここで間違えてはならないのが、一作見ただけでは、その監督の作風を分かった気に陥らならないことだ。一作見ただけでは、作家の一面を見たに過ぎない。後で気づくのは、ホウ・シャオシェンは、そういう作家ではないことだ。
僕がこの映画を見るきっかけになったのは、彼の作品の権利の期限が過ぎたからか、入手困難な状況の仕舞に選んだものだからだ。配信でも彼の作品が見られるのはそうなかった。「悲情城市」は違法アップロードであったが、字幕なしで見るのをはじめは楽しんだが、途中で諦めた。「オッペンハイマー」が日本で未公開だった時期に、東浩紀がアメリカで見に行った批評を書いていたが、本当に翻訳なしの映画を理解していたのかが怪しかった。というように、言語が分からず見るという楽しみ方は人の勝手であるが、味のしないものを食べているのに近く、それは味わいに欠ける。だから、字幕のあるものの中から、「ミレニアム・マンボ」を見るはめになった。海外には言語の壁というの付きまとうものだ。けれどもそれは本編のなかでもあるように、台湾から見て、日本という異文化の国であっても人と心を通わせ、交流ができることを教えてくれる。興行的には成功しなかった「ミレニアム・マンボ」であるが、それについては以前から最近のレトロスペクティブ的な流行りで、4Kリマスター化されていたのも分かっていた。
「ミレニアム」という言葉も過去になった。映画やドラマはその時代のリアルタイムを記録したものでもある。そこにはSFであろうと時代劇であろうと関係なく、その時の役者の年齢から演技や制作する側の技術が残されるものなのだ。
台湾映画と日本映画の関わりは今なお続いている。日本と台湾の合作では、近日公開の「青春18×2 君へと続く道」(24)がある。藤井直人の新作でもあり、彼の祖父も台湾にゆかりをもった人物でもあると知った。これもまた是非見てみたい日本と台湾を舞台にした映画である。