パリ、テキサス(映画漫評②)
一足早く夏の風物詩、「エンドレス・サマー」をこのまえ見たが、これがイメージと違った。「エンドレス・サマー」は予告編でもやっていて、画面いっぱいの吞み込まれそうなほどのウェーブの水しぶきと相反して、渇ききったテキサスの高原から始まる「パリ、テキサス」の本編は、徐々にその足らわぬ渇きを満たしていくようだった。
「パリ、テキサス」、その映画がいかに名が知れた作品であるかは知っていた。V字の素肌を見せて振り向くナスターシャ・キンスキーは、いたるところで見かけたことがあった。その着ている服は、ニットかセーターの赤い服。主役の髭もじゃの男がはじめ被っていた帽子も赤だった。その実の息子が着ていた服も赤だ。この作品で効果的に使われている「赤」とは、その家族の三人が離ればなれであってもつながっていることを示しているように思えた。そう気づいたのも、観終えてからずっと経ってからだ。入場の際に配られたメモリアルペーパーの三つの写真を見比べれば分かることだった。そこにはミッドランドの従業員・村田が書いたコメントもあったが、それはまた別の視点で書かれてあり、この映画に適しているとも思える。
「パリ、テキサス」。映画の内容を尊重して日本語で訳すと、「テキサス州のパリ」とするが、英語では住所の詳細を頭に持ってくるため、「パリ、テキサス」となる。「パリ、テキサス」、その地名だけの並びだけが、そこで生きてきた無名の人たちの人生がある。見る側は、これまでの経験を無意識であっても抱えたように見ようとする。見る世代で見方は変わるというが、経験してきたことが違っても、見るのは同じひとつの作品だ。今回の「パリ、テキサス」の場合は、2017年にリマスター化された特別編集版といっても、画質の違いはあってもほとんど変わっていない。確かに画質は良かった。その澄んだ画質の割に、古い雰囲気の香りが鼻につくのが午前十時の映画祭ではよくあることだった。いや、それはポップコーンの香りのせいだろうか。薄暗い中でスクリーン上に舞っている埃のせいだろうか。しっかりとした喚起はまだ行っているのだろうか。その答えは、映写機の光の方へある。
カウンターのある古びたバー、広告看板や、ガラス越しのコール室、今では見かけることも減ったものが、ここには背景として登場する。皆が名シーンと呼ばれるものは名シーンだった。「パリ、テキサス」、見れば見るほど、発見がある映画なうえ、ひとまずここまでとしよう。
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