トーキョーシンパシータワー
芥川受賞作を読むのは二年ぶりだった。受賞作は毎年いまの時代を捉えて映している。しかし今作は10年後の先をいく2030年の日本という未来の設定で、まるで別の国を見ているかのような日本が映されている。とあるアラサー女性建築家は、ザハ・ハディドの「アンビルド建築」とされる新国立競技場に対となる塔、「トーキョーシンパシータワー(=東京都同情塔)」を計画する。トーキョーシンパシータワーとは、社会から擁護される囚人たちが生活する充実した刑務所であった。ロシアかヨーロッパのどっちかに、世界一自由な刑務所とうたわれる先進国があるように、一歩間違えれば日本もそうなっているかもしれない未来である。けれどもその世間を見下ろすような高層の塔で一日中生活する囚人は外出もできず監禁され、それほど自由とは言えそうにないように思える。
アラサー女性建築家は、考える。その年下の彼氏であるタクトからは「年のわりに古い時代のことを考えているな」と言われるように、アラサー建築家はそのタワーに沿った曲線のように、少し曲がっている。いや、2030年という日本の未来がわき道に逸れたように、曲がっているだけなのだ。だから本作には、「コロナ禍」の「コ」の字も出てこないのか。確かにタワーの造形美というのは一度見ればその迫力が体感できる。自転車で東京を走った時でも、何故かスカイツリーに引き寄せられるのはそうした理由だった。都市に屹立する塔は、日本を象徴している。かつてEXPO'70の太陽の塔がそうであった。大阪万博が再び始まっても塔はあのままなのか。タクトが一人暮らしをしていた地震が起こるたびに死が頭を過ぎるような木造のアパートと、その一見して優雅な暮らしぶりの思えるトーキョーシンパシータワーの差とはいったい何なのか。作中で忘れてはならないキーワードになる「アンビルド建築」も魅力的だ。アレハンドロ・ホドロフスキーの「DUNE」が、史上最も実現されなかった有名な映画とされるように、ザハ・ハディドの新国立競技場のデザインは、膨大な予算がかかるがためお蔵入りになってしまった有名なアンビルドだった。「DUNE」は、今ではドゥ二・ヴィルヌーヴがリメイクし始め、今年の三月に続編が公開予定だ。新国立競技場はザハ・ハディドが降板してから隈研吾がデザインして今でも残っている。小説にはアラサー建築家とその年下の彼氏の間に入るように、三流ライターのアメリカ人の男も登場する。彼が書くトーキョーシンパシータワーの記事のなかで引き合いに出される、ユキオミシマの「金閣寺」についても注目したい。それは溝口と柏木の会話の部分であり、「認識」と「行為」のどちらが世界を変えるのかという課題である。東京の景色の一部となったその塔がもつべき社会からのシンパシー(認識)、その塔内では過去に罪を犯したというクライム(行為)があるというのにもかかわらず・・・。アラサー建築家はこのトーキョーシンパシータワーの建設にあたり、その社会と周りからの「認識」と自らそのタワーのプロジェクトに参加するという「行為」に人生を棒に振ったような様子だった。金閣の美に虜になった青年の物語の「金閣寺」と共通して読めることは、作者の九段理江が、筋トレを習慣にしている理由で三島の名を挙げていることからも、それは明らかなのではないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?