青山真治クロニクルズ展レポート(3)
〔青山真治という文学ー「空に住む」から雲の上までー〕
2020年公開の「空に住む」は、近年の映画である故、配信であらゆる人が見ている作品なのではないだろうか。キャストや脚本も含め、従来の青山作品とは離れた感覚の作品だと思うが、前回の投稿に引き続き、彼の手掛けた作品の中でこれほど女性にスポットを当てた秀作はなかったのではないだろうか。
親の葬式を終えたばかりの多部未華子が愛猫とともに、親しい叔母夫婦の紹介で高層マンションに引っ越していく場面からはじまり、小さな出版社で勤めながらそこで住み慣れていく生活を描いた物語だ。また、作中ではアイドル的な有名人という設定である岩田剛典と同マンションでめぐり逢い、奇妙な関係を重ねていくのも重要なテーマでもある。こうしたドラマでありがちなギミックは2001年公開の「月の砂漠」のアキラとキーチの出会い方にも似ている。アルコール依存症のアキラは、亡き父母の姿と思える幻覚を見ながら、不良の青年のキーチと同じくマンションで出会い、彼を部屋に招いてしまう。しかし、それは別居中の夫である井上の思惑であることは確かだった。劇中では、井上のキャッチフレーズでもある「欲しいと思ったものを手に入れると、その欲しかったものは消えてなくなる。後に残るのは妄想だけ」という言葉が反復する内容になっている。これは世界から喝采された「EUREKA」の翌年に制作された作品なだけあって、青山自身の混沌とした内面の写し鏡でもあるように思えた。作家がその時々の時代や、調子、気分をそのまま作品に注ぎ込むのは大抵、よくあることだ。これまで取り上げた作品を通しても分かる通り、そう考えてみると、「空に住む」はどうだっただろうか。青山が得意とする喪失からの再生の作品であることは、間違いないだろうし、高層マンションという近現代的な場所を一つの舞台としていることもそれが認められる。何より青山が今までと変わらず、事実を形にしている文学的作家であると理解できる。「空に住む」は、年老いた彼にとっての新たな変換点であって、これを機に次作から、また違った商業映画の未来が作られていくべきだった。
今回のレポートの下調べとして、彼が亡くなった後、制作予定だった映画が多く残されていることを知った。それは「空に住む」の公開年に起きた流行り病も加算して、延期が余儀なくされたことや、彼の持病が悪化した事情もあったからだ。また、追悼して彼と交流のあった人が開陳する言葉も、彼が愛されてきた人物であることを物語る参考になった。
満を持して見に行った「青山真治クロニクルズ展」では、過去のアーカイヴのなかで、彼の直筆の原稿や、前述したような未公開になった映画、彼の作品に携わった美術監督の資料などが展示されていた。帰りがけの際、出入り口付近で立ち止まっていると一人のお婆さんに声を掛けられ、彼女は「この人の映画みたことあるけど、好きではない」と語っていた。確かに、女性の人気は少ない人物だと思う。けれども、この「空に住む」は、比較的に老若男女問わず受け入れやすい映画だと思う。私は今まで自分が好んだ映画とは、その時々の自分を写す鏡のようであると思っている。現実の先にある虚構は、もう一人の自分に出会える空間であるからだ。青山真治および、北九州の映画に出会えたことを光栄に思っている。映画という文化を絶やさずに、貢献ができればと思う。
(欄外、「クロニクルズ展」は、終了しています。12月2日~17日)
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