似合わないことをやりたい気分
私の住む田舎では度々フェスめいたものが行われる。
この週末も近くの公園で、「ロハスパーク」なるイベントが開催され、母と息子と出掛けてきた。天気もよくて、暑い。玄関を出てその空気のもやんとした温もりに一瞬たじろぐが、これぞフェス日和だと思い直し、車に乗り込む。
公園に到着し、まずは私たちの本拠地となるポップアップ式のテントを立てる。収納袋から取り出して広げるだけで設営完了という代物だが、開くと骨が折れ曲がっていて、うまく自立しない。右側からでかいゲンコツで殴られたかのようにボコっと内側にめり込んでしまっている。
ならばと車からロープを持ってきて、片側をテントにもう片側を木に括りつけ、おい起きろとテンションをかける。しぶしぶ起き上がったテントはしぶしぶ起きた感は否めないが、ちゃんとテントになっている。
コールマンのよくあるやつ。すでにこの日も同じポップアップテントが3〜4基張られていたが、それらとは違う外れ値的な風体だ。人と同じを嫌うという尖りをいつまでも奥底に持ち続けている私は、悪い気はしない。
フェスなんだからいうまでもなく、たくさんのものを食べた。長いポテト、チュリトス、ザンギに家で握ってきたツナマヨおにぎりとゆかりおにぎり。外で食べるこれらは家で食べるよりすぐうまい。遠くから聞こえてくる子どもの声や大道芸人のヅチヅチいうパフォーマンスBGMも心地いい。
皆も同じようにこういう時にしあわせを感じるのかもしれないが、一際私はこういう時にしあわせを感じる人間な気がしている。比べられるものではないがなんだかそんな気が。
飲食ブースやアクセサリーや食器などを売っているブースなどが開けた芝生広場に犇いている。子どもたちが中に入ってぴょんぴょん跳ねるふわふわドーム、移動式の動物園なんかもあって楽しい。
移動式動物園は予想以上の入園料にたじろいだが、一度入ってしまえば入園料のことなど忘れてただ楽しい。入って数秒で女の子からヘビを手渡され、たじろぐが、ちゃんと持てた。
幼稚園の頃、住んでいた団地の階段の入り口で母と友人の母がしゃべっている時、「俺毒蛇とか首に巻けるで」と脈絡なく豪語していたシーンを思い出す。
ひよこに手を突かれるたび、プラスの感情が注入されるようだ。かわいすぎる。
ブースの切れ間、大きなイチョウの木の下に銅像が立っている。いや、人だ。
こういうパフォーマンスをなんと呼ぶのかわからないのだが、大きくいえばパントマイムになるのだろうか。カチッと銅像のようにかたまっては、時折コミカルに動く。特に子どもは興味津々でとても喜んでいる。息子も何度もその人の元に行き、観察をしたり、ちょっかいを出したりしていた。
チップを目の前の箱に入れると動いてくれて、一緒に写真を撮るよう促してくれる。息子に撮るかときいてもこわがって撮らず、やはりなかなかあかんたれだと再認識した。息子は無垢な表情で「あれロボットかも」と言っていて、「うわぁ人だと思ってないんだ」と愛くるしくて胸がぽかぽかしてくる。
そのパフォーマーの人は背がすらっと高くて、いかにもこのパフォーマンスにマッチしている。無駄を削ぎ落とし、動かないことでお金をもらうというパラドックス的働き方はなかなかにかっこいい。
普段であれば、一度立ち止まって見るだろうが、何度も見にくることはなかったかもしれない。息子と何度も見ているうちに何だか気持ちが揺れる。
「似合わないことをやりたい」と思う。
このパフォーマンスを100kg周辺を徘徊している私がやったら面白いだろうなと思ったのだ。笑い物にされるかもしれないけど、その様も想像して笑ってしまう。「予想以上にウケが悪くて気持ちはあたふたしているのに銅像設定をきちんと守って自分の身幅ほどの小さな台の上で動けない私」を想像すると嬉しくてたまらなくなる。
失敗も後からいい思い出や学びになるみたいな教訓を飛び越えて、はじめから失敗して慌てふためいている自分を想像して嬉しがっている私は、結構もう辛いことがあっても大丈夫なのかもしれない。
もちろん自分らしいことでベースを固めておくと安心だけど、ピリッとアクセント的にいきなり似合わないことをやってもいい気がした。気軽にできそうな似合わないことはなんだろうか。
痩せることかもしれないと思い至った。レッツ腹筋ローラー!
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