【読書記録】遅いインターネット
遅いインターネットは、名前を見て、結論はコミュニティ運営や熟読できるメディアの運営かな...と思っていたけれどその(やはりそうだった)結論に行き着くまでの話が非常に面白かったので、記録する。
まず、境界についてanywhereとsomewhereの人の比較。anywhereが境界がない人たちでまさにシリコンバレーにいるような一つの国に固執しなくてもいきているいける人たち。もう一方でsomewhereは国に固執しないといきていけない人。この人たちは境界がない世界に適応できないため、どんどん国と国の境界がなくなってきている今、保守的になり壁を作りたいと願う。
ただ、現在の民主主義は、somewhereの人の支持を得て、影響されやすい状況であると。確かに、アメリカ、イギリス、もはや日本もそういえるだろう。
じゃあ、そうなった時にどうすれば良いのか。著者は、「民主主義は半分諦めることで、守る」といっている。
私もこれには賛成だ。あまりにも今の状況を見ると、分断は加速するだろうといえる。正直、コロナが今後の世界の政治状況をどう変えるのかが気になる。というのも、コロナでお互いの国が協力することが求められているのと同時に、今回のコロナの感染拡大はそもそも海外から感染者が自国に入って広がっている。そうすると、じゃあ今後は外国の人の入国を規制をしましょうという流れになってもおかしくないからである。
また今まで、メディアは人の生活を変えてきたことについての歴史を追って説明している。特にgoogleは影響力がかなりあるということを記載してある。
今まで、政治は他人の語る物語に感情移入することで支持を得てきた。これは今でいう、フェイクニュースを人々が信じるのも同じことだろう。それが正確な情報だと判断するだけではなく、それを信じたいからである。
しかし、徐々に今は、日常に自分の物語を掛け合わせることが重要と筆者は考えている。というのも、結局、非日常のものに抵抗しうる回路を作るためには日常へのアプローチが必要だからである。
非日常×他人の物語 映画
日常×他人の物語 テレビ
日常×自分の物語 生活
非日常×他人の物語 祝祭
そこで上がるのが、吉本隆明である。(私は恥ずかしながら知らず、この本を読んでもっと本を読まねばと思いました)
吉本が提唱している、共同幻想、対幻想、自己幻想の概念はまさに今のSNSに当てはまるという。それは、共同幻想がfacebookのタイムライン、対幻想がLINEなどのメッセンジャー、自己幻想がプロフィールになる。
高度経済成長期は、共同幻想(仕事)と対幻想(家族)が求められ、自己幻想が埋没していたが、今は、自己幻想が求められている。それは、SNSのインフルエンサーが流行っているのも見て取れる...。そうなると、somewhereの人々は自己幻想を十分に持つことができなくなり、その補填として対幻想と共同幻想を用いて、誰かからのいいねや、セルフィーのタグ付けにより、自己幻想の強化をはかそうとしているという。
これには、非常に納得。一昔前までは、仕事につき結婚をし、子供をうんで...とある程度レールがあったが、今はそのレール以外にもたくさんのレールがある。また、どれが正解なのかは人それぞれ違う。そうなった時の不安がSNSに蔓延しているような気がした。
すごい端折って記載してしまったが、そうなった時に著者は自己幻想の肥大に対する自立が必要。それは、対幻想(タグ付け)も共同幻想(リツイート)に対してもバランスをとり、世界と調和的に関係し続けることであると筆者は言っている。そこで具体的に、話されているのが、まさにタイトル通り「遅いインターネット」の仕組みである。例えば、熟読できるメディアなど。
最後の結論は、今よくあるオンラインサロンなども一つの解決策として行なっていることだと思うから、納得できる。
ただ、そうなった時に、結局内輪の世界になっていくのではないか...ある種、じゃあもう国は知らない〜こっちはこっちで生きていきます〜みたいな考えにも見える。だから、著者は、最初に民主主義を半分諦めると言っていたのかもしれない。
ただ、著者が提唱しているスロージャーナリズムも結局その界隈、リベラルな人しか集まらない場所になり、居心地が良いものになってしまう危険性もある。(それでもいいのかもしれないけれど...)
だったら、それこそ、先日読んだ表現のエチカのように、「歓待ゲーム」のように誰でも入って、権威とかそういうものなしに会える場(パーティー)をやってもいいのではないかと思う。
今のコロナの状況だと厳しいかもしれないが...。
(すみません。ほぼ要約の読書記録です...)