
エンターテイメント化の危うさ
”笑いの文脈に落とし込み笑いに昇華する。つまりそれは禊という免罪符として機能する” エンターテイメント化することの危うさということもあるんですね。
太田氏のこの暴走に対して「よく言ってくれた」などと賞賛されている事に懸念。そもそもこれ暴走なのだろうか。今回の疑惑を笑いの文脈に落とし込み笑いに昇華する。つまりそれは禊という免罪符として機能する。私にはむしろ「まあまあ」というフジテレビ擁護にさえ感じたhttps://t.co/hwgH1ZSWzH
— 長谷川良品 (@ryohin_jp) January 2, 2025
我々の社会は現実の辛い出来事をフィクション化、エンターテイメント化することで飲み込んでいきます。
例えば大きな災害とか事件とか、あるいは戦争とか。 そうやって歴史化して、お話にして無害化して飲み込んでいくのです。
エンターテイメント化することは無害化してしまうことにもつながる危うさがあるのですね。
エンターテイメントの毒舌というのは、それがどれほど鋭いものに感じられようとも、つまりは安全なスリルであるということなのですから。
わかりやすいお話にしてしまう危うさ。
実際には複雑で多面的で簡単に語ることが困難な問題を、エンターテイメント化は善玉、悪玉、因果関係が単純ではっきりしたわかりやすいお話にしてしまう危うさがあります。私たちは、 それ以上考えないでいいとしてしまう危険。
それは例えば報道そのものが持っている危うさでもあります。
それにしても。
「毒舌」、「歯に衣着せぬ」、「鋭い風刺」などの価値はSNS社会以前とくらべて大きく下がった印象です。
TVや新聞雑誌で発信されることだけが「表に出す」感覚だった時代と、SNSで誰もがいくらでも発言出来る今では違いますね。