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おしゃべりにタイムカプセルを埋める日々を

家の近くに足繁く通う蕎麦屋がある。蕎麦屋で飲むのはどうしてこんなにおいしいんだろう、締めの一曲(蕎麦)に向かってセトリを組むような感覚があるからかしらと思うのだけれど、このお店に来ている人のほとんどが「一曲目」に注文するのが刺し盛りだ。これが、「なぜ?」と首をかしげたくなるくらいおいしい。大将は「切ってるだけですよ」とかっこよく謙遜するけれど、この質の魚を町の蕎麦屋が仕入れていることが素敵だし、すこし謎でもある。

もちろん一緒に足繁く通っている娘は、4歳でこの町に引っ越してきたとき刺し盛りに心をつかまれたようだった。カウンターで「トロおいし!」と小さく叫び、大将はそれはよかったと笑った。

そしてその日以降、大将はうちのトロっ子のために刺し盛りの中トロをかならず増量してくれるようになった。刺身を頼まない日もサービスで出してくれる。わたしは申し訳ないやらありがたいやらの中、あたらしい町で愛のある店と出会えたうれしさに心を溶かしていた。

ところが。子どもというのは「刻一刻」という言葉が大げさでないくらいのスピードで成長する。味覚も変わる。好みも変わる。そして忖度しない。

先日のこと。年越し蕎麦のお礼と新年のごあいさつを兼ねて娘とふたりで暖簾をくぐり、しかし本調子ではなかったので刺し盛りは頼まずにいたら、やはりトロの小皿をいただいた。薄白い筋を全体に渡らせ、てらりと光る4枚の桃色。

飽きもせず美しさに目を奪われるわたしと対照的に、当の娘は「ありがとう」と言いつつ反応が鈍い。そしてしばらくしてから、「半分に切って」と耳打ちしてきた。食欲がないのかなと心配しつつ四苦八苦して箸でわける。ぐちょりと乱れたトロを口に運んだ娘は、笑いとも苦悩ともつかない顔でまたそっと耳打ちしてきた。

「ごめんね? この前も思ったけどやっぱり、トロ、あんまり……あぶらっぽくて気持ちわるい」

思わず娘の目を強く見た。「脂身が気持ち悪い」、わたしが30を過ぎて辿り着いた場所だ。むしろ若いころは霜降りを求めるように生きていたのに、これがTOKYOの子か飽食の子か。

そしてその衝撃が抜けたころ、はたと気づいた。好き嫌いはかまわないのだけれど、問題は「トロはもういい」とどう伝えるかだ。

めいっぱいの「ごちそうさま」と「おいしかった」をふたりがかりで伝えた帰り道、娘に話した。

——このままだと大将はずっとトロをサービスしてくれるよね。大将は娘ちゃんにあげたいはずだから、それをママが食べるのはよくないと思う。だからトロはもういいって言わなくちゃ。でも伝え方が思いつかなくて。

「たしかに」とうなる娘。「困ったねえ」と慰めあったり、「ママが食べつづける」という捨て案を広げたり、「もう一度トロを好きになる……?」と提案して「それはむずかしい」とやんわり拒否を示されたりしながら家路についた。

エレベーターで娘の後頭部を見ながら考える。

たとえば、ひろゆきさんだったら(年末年始に『世界の果てに、ひろゆき置いてきた』を見たのですぐ出てくる)次回、刺盛りを頼んだその場で「あ、ちょっとトロ好物じゃなくなったんで増やしてくれなくて大丈夫です」とさらりと言うだろう。

なぜわたしは言えないんだろう? なにを恐れてる?
ぐるりと考えてひとつ、「あれに近いかも」に至った。
おばあちゃんのおやつ。

おばあちゃんに一度「このお菓子、好き」と言うと、遊びに行ったときかならずそれを用意してくれるようになる。それも、何年というスパンで。はじめはうれしいけれど、次第にテンションは落ちていく。けれど「これもういいよ」とは言えない——。

なぜ言えないのかというと、おばあちゃんにがっかりさせたり、恥ずかしい思いをさせたくないからだ。「嫌々食べてた?」「困らせてた?」、そんなふうに過去を見てほしくないから。同じように、大将に「いつから余計なお世話だったんだろう」ともやもやさせてしまうのがこわいのだ。

じゃあ、おばあちゃんを傷つけないためにはどう伝えればいいだろう。つい最近まで用意してくれてたわけだから、好きではなくなったとは言えない。そうだ、「いまはこっちのお菓子にハマってる」と代替品を提示するのはどうだ。新スターを呼び旧スターにゆるやかに引退してもらう。

……と考えて、ひらめいた。

「イカは?」
「え?」
「急にイカブームが来ましたって言うの。そしたら、この前まではトロだったけど今日からは違うんだなって思ってもらえない?」

わたしの得意げな説明に娘は浅くうなずき、言った。「そしたらイカが増えるね?」。

あーーー、そうか。イカリクエストになってしまうね。だめだ。

気落ちするわたしを尻目に「それいいネ!」とよろこび跳ね、娘は洗面所に向かった。

その姿を見て、ふと笑いがこみ上げた。トロだけで、けっこう話したな。

些細な「考えるタネ」をくれて、こんなに一緒に騒げる。娘と共にある日常だ。しかも変化も味わえる。3年前にはこんなおしゃべりはできなかったし、3年後にはまったく違うおしゃべりをしているのだろう。

トロ問題については、ふつうに「この子の好みが変わって」と言えばいいだけの話かもしれない。けれどいつか娘と「トロ事件、あったよね」と笑い合えるかもしれないから、この「ああだこうだ」の大玉を一緒に転がしたい。「マカオに行ったよね」と同じくらいの未来の思い出が、どうやら日常には転がっている。

トロとイカ。しょうもないことに全力で。

タイムカプセルを埋めるような日々が、今年もつづきますように。

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