逃げろ、想像と創造を奪われる日常から

タイトルの激しさからはいささか離れているような事柄から始まりますが、最後は腑に落ちると思います。

かつて博多に暮らしていたことがある。そこは、北に紀伊國屋のような海外製品もあつかう高級スーパー、そして南には市内で最大規模の屋台が並ぶナイス商店街があり、日々の食材調達が楽しくて仕方ないような町だった。東女にとって、かつお菜なる広がった葉っぱや、ウチワエビのような広がった甲殻類が並ぶ様は、想像力と創造力を触発してくれる存在だった。

過日、ついでにと寄ったスーパー。そこに並ぶのは冷凍食品や加工品ばかり。鮮魚はちょびっとで、刺し身の盛り合わせ以外は干物のサンマ(きっと冷凍を解凍)、塩漬けの鮭(きっと冷凍を解凍)や真空パックの蒲焼きなんかばかりが並んでいて、新緑の季節の悦びを感じられないまま、カゴを戻して帰ってきてしまった。

季節の恵みをいただく、という行為は、ささやかながらも想像と創造が内包されており、日常を豊かにしてくれる大切な要素だと思っている。現代の都市生活においては、数多くの「便利」によって自然の厳しさに苦しむよりもそのおおらかさを享受することの方が多い、はずだ。しかしどうだろう。箱を開けてみれば、私たちの日常は便利すぎることで、安直に想像と創造を放棄してしまっているのではないだろうか。供給側にコントロールされてしまう部分は確かにある。そこにちょっとだけクエスチョンマークを持つことが大切なのではないか。

満開の桜の後は筍ご飯が並ぶSNSのタイムライン。皆が季節の恵みを享受する幸せを実感しているように思える。けれど旬の一人勝ちは、本来ならもっと自由で繊細な自然とは逆の方向に行っているように思うのだ。そして単純な方程式はまた、本来ならもっと自由で繊細な人の想像と創造を退化させてしまうとも思う。

ダイバースが声高にいわれる今だけれど、トレンドの一人勝ち、ベストセラーの一人勝ちは進んでいると思う。そこから逃れてもっと自由になること。「魂の脱植民地」(深尾葉子著)という本があるが、魂だけでも開放させるために、まずは想像と創造の失われた事柄から逃げるのも一手だと思う。

これ、もう少しきちんとまとめてウェブロンザに出そう。

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