僕とマラソン
僕が初めてフルマラソンマラソンを完走したのは、2001年の長野マラソンだった。
当時の同僚に誘われ、軽い気持ちでエントリーしたのだが、一緒にエントリーした会社の同僚や上司には負けたくない、ただそれだけが頭の大半を占めてスタートラインに立っていた。全国に何百万人もランナーがいる中ではまったく意味がないのに、身近な誰かに勝つ事や負けない事に注力していた。
しかし走り始めると、そんな気持ちは自分自身の不甲斐ない走力への悔しさにかき消され、同時に沿道の応援や太鼓、ブラスバンドの音、りんご畑で応援してくれるおばあちゃんの声援、遠くに見えた雪山や川の流れ、菜の花、桜の花吹雪に少しずつ癒されていった。
自己肯定感とも少し違うが、これでいいのだという気持ちじわじわと湧き、脚に伝わる激痛に身悶えながら、ブラスバンドの音を聴くと決まって泣きそうになる自分を奮い立たせ、大げさにも生きる意味と走る事を重ねて、足をただ一歩ずつ前に進めた。
はじめてのゴールテープをくぐった時、僕はすっかりマラソンの世界に魅せれられていた。
後日、長野マラソンに誘ってくれて一緒に参加したクソベンチャーの同僚に、本郷の喫茶店でコーヒーを飲みながら僕はいつかマラソン大会を作ってみたいんだと嘯いた。
この世の中で最高に素晴らしいマラソン大会はニューヨークシティマラソンだとどこかで聞き、2006年にニューヨークマラソンに出場した。2007年にベルリンマラソンに出場した。各地のマラソン大会に出場した。
マラソンには自分の見えている世界を変える力がある。そう確信していた僕は半ば引きこもりだった大阪の幼馴染を帰省するたびにランニングに引っ張り出した。
2011年、サラリーマンを辞め、与えられるばかりだった自分のこれまでを振り返り、ライスワークとライフワークを分けて働き、ライフワークには世の為人の為に使おうと決心した。NFLを目指している若者とLAで出会い、僕はクラウドファンディングサイトを立ち上げ、アスリート支援を始めた。さらにスノーボード好きの先輩に連れられ、当時足繁く通っていた白馬村のトレイルランを少し手伝う事になった。
そんな活動を見ていた誰かが、スポーツとインターネットとマーケティングと言えば田中だよね、と紹介してくれて僕は東北風土マラソンの仲間と出会う事になった。2013年の秋だったと記憶している。
震災当時、僕は何も出来なかった。
あれから時間は経過してしまっているがせめてスポーツで何か関わらせてもらえれば、とお手伝いさせていただく事になった。
僕はマラソンを主催する側になった。
毎年、奇跡的な人との出会いや巡り合わせがあり東北風土マラソンは成功裏に終わる。関わったすべての人の気持ちが、ランを通じてやや一つの方向に向かい、それを惜しむ間もなく撤収が始まる。大会終了後にはNHKの夕方のニュースにその日の東北風土マラソンの風景が流される。撤収をほぼ終え、会場近くの温泉施設のテレビ画面でそれを眺めて僕は感慨にふける。
2023年、今度は新潟はまつだいの棚田保全の為に通っていた土地でトレラン大会を請われて仲間と一緒に作る事になった。
登米やまつだいの美しい自然の中を走るランナーとそれを支えてくれるボランティアさん達。
風景は見るものではなく作るものなのだとマラソンを通じて僕は学んだ。
その頃、引きこもりだった幼馴染も仕事も見つけラン友もたくさん作り、いつの間にかサブ3ランナーになっていた。