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日本人がいるところなら世界中のどこででも見られる祈り:「世界人類が平和でありますように」
京都は祇園の八坂神社にいくと、南門を入った敷地内に杭が打ってある。
「世界人類が平和でありますように」
日本人がいるところなら世界中のどこででも見られるという、あの、おなじみの杭は、ある宗教法人が広めたとか、博報堂が関わっているとか、なにやら裏の話もあるようだが、杭に書かれている文言自体は、単純な祈りの文である。
「世界人類が平和でありますように」
祈りは「縁」を分け与える。
自分との「縁」があるから祈るのではなく、
祈ることで「縁」ができる。
「世界人類が平和でありますように」
そうあなたが祈る時、世界人類とあなたの間に「縁」ができる。
個々人と世界人類との間に「縁」を作ろうと、世界中で、
「世界人類が平和でありますように」と書かれた杭を打っている人がいることを想う。
同時に、「祈りの杭」を打たなくとも、
木を植えたり、蜜を集めたり、介護をしたり、ピアノを弾くことが祈ることになっている人がこの世にいることも想う。
祈りとは、手を合わせたり、祈りの言葉を唱えるだけではない。
祈り方は人それぞれであり、
祈ることで、他人は他人で終わらなくなる。
世界が粗暴にならないためには、祈ることが一つの方法である。
そして、その方法は、人ぞれぞれであってよい。