均等法世代(女性)が定年を迎えた時に考えたこと。【定年×女性の生きる道①】
1986年(昭和61年)新卒入社の、いわゆる、「均等法世代」女子だ。入社以前に、就職ということについて、ほとんど考えのない学生だった私は、どうしてもやりたいことがあったわけでもなく、どちらかというと、やりたくないことのほうが多かったので、自宅に当時勝手に送られてきた就職雑誌をペラペラめくって、「消去法」で会社を選んだ。
本当に今の学生が聴いたら、口あんぐりとなりそうな就職活動である。
我が家に届いた1冊の「学生用とらばーゆ」(懐かしい)にどんどん×を付けていき、残った会社が当時世界No.2のDECという会社だった。
コンピュータの会社?それなんだ?と思って調べてみると(といってもWebページがあるわけじゃないので、そのとらばーゆに書いてある情報頼りだったはずだが)、当時はとても珍しい職種別採用を行っていた。募集職種の中に、「技術教育エンジニア」というものがあり、どうやら、大人に教える仕事らしいことが分かった。大学では教育学専攻で、教員免許は取らなかったが、教育など人に関わることには多少興味があったので、応募したのだ。
たしか、大学4年生の7月か8月のことである。
書類を送ったら、電話がかかって来て、「もう募集、締め切っているんですよね」と言われたものの、「そこを何とか!受験させてください」みたいなことを言って食い下がり、SPIみたいなもんと面接に持ち込んだ。後でわかったことだが、「技術教育エンジニア」の採用枠は満たしていたので、それ以上採用する必要はなかったらしい。しかし、時は、1985年。そう、バブルに向かって経済が右肩上がりの時である。新入社員が一人や二人増えても、きっとどうってことなかったのだろう。SPIも面接も格別良かったわけでもなかっただろう私が内定をもらえたのは、一重に「景気が良かったから」に過ぎない。実際に同期は200人くらいいた。
配属されることになっていたのは、「教育部」という部署で、顧客向けにビジネスとして研修を提供するのが役割だった。「インストラクター」という職種の人が部門のたぶん80%くらいを占めていたと思うが、自社製品のOSや関連するソフトウェア技術を教える仕事だった。(これもまた結構、当時では珍しかったはずだ。自社コンピュータを買ってくれた顧客には、教育をサービス提供していた会社も多かったんじゃないだろうか。DECは、事業として研修を顧客に提供していた。)
「3年勤めて25-6歳で結婚、28歳くらいに第一子、それで退職かなぁ」と、心からの腰掛気分で臨んだ会社員生活1年目だったが、コンピュータ技術は難しいし、インストラクターになるのも困難が伴うし、とにかく、ひーひー言いながら1年目を過ごした。本当にコンピュータのことが理解できないし、テストの成績は常に悪いし、「こいつ、いつまでもつだろう?」と皆噂していただろうと思う。
「まあ、一人ぐらい増えてもいいか」と採用された私が、それでも同期の中では一番長く働いだのだから、先のことはわからないものである。
同じ部署の東京勤務同期女性は、私を含めて3人いたが、1人は、1年しない内に退職。もう1人も3年くらいで転職していった。男性たちも、2-3年で転職していったので、20代後半には、同期で唯一私が残っていたのだ。
(そんな経験があるので、若手を見ていて、入社時にやる気がなくても、腰掛気分でも、とにかく、どんな若手であっても、私はおそらく誰よりも寛容である。人は変わる可能性があると知っているからだ。)
さて、話は戻すが、そんないい加減な気持ちで就職した私が、途中、部門売却があって、別の会社(現在の勤務先)に転籍した上で、とにかく連続37年、休まず勤務し、2023年定年を迎えたのである。
定年は、60歳誕生月と定まっていたため、1月生まれの私は、2023年1月31日をもって「正社員」という身分とさよならをした。ただ、そこで問題になるのが、「65歳までの雇用義務」である。
企業側は、本人が希望するとよほどのことがない限りは、雇用しなさい、という義務が数年前の法改正によって定められている。なので、いったん定年退職を迎えた翌日、再雇用で「契約社員」となった。
私が女性で初めての「定年退職者」となり、初めての「定年退職再雇用としての契約社員」となった。
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