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温かい言葉
今、気になる人がいる。若松英輔。
若松さんのことはそんなに知らない。少し前、今でも引きずっている大切な人から届いたメッセージに「少し気持ちが落ちている」とあった。その人が穏やかな気持ちになれるようにと本を探したとき、若松さんの詩集を見つけた。
妻を亡くした若松さんの心情がつづられているのだが、その言葉はとても温かい。さびしさや悲しさを表現しているのに、なぜか読む手を包み込むよう。きっとこれを読んだら、あの人もほっとするんじゃないか。(そう考えて送ったが、以後音信不通。余計なお世話だったか)
鷲田清一も好きで、少しずつ本を買っている。鷲田さんは哲学者だが、哲学の知識を得ようと思って読んだことはない。ただ言葉を欲している。
今、wiki で見て知ったのだが、専門は臨床哲学。そっか、どちらかというと心理学的な感じがするのはそういうことだったのか。(臨床って付くから?)
母が死んだことを他人事のように感じながら生きていたとき、精神分析医・小此木啓吾の「精神分析のおはなし」を読んだ。モーニングとグリーフに関する部分は救いとなり、文章ににじむ優しさ、思いやりもまた心の支えだった。
この小此木さんと同じ感覚を、鷲田さんの本を読んだときも感じた。
鷲田さんの言葉と相性がいいのだろう、買って失敗したと思ったことがない。手元にあるどの本にも、必ず読み直したくなる文章がある。
しかし、よくよく考えてみる。「したいこと」というのがほんとうにしたいことなのか。「したいこと」としてひとが思い描くのは、視野にある範囲での最良のものである。目の前にある枠組みのなかでどう生きるかということである。けれどもそうした枠組みの向こう側までひとははたして夢見ているだろうか。「しなければならないこと」もほんとうにしなければならないことなのか。「しなければならないこと」と、ただ思いこんでいるだけのことではないのか。
そういえばこの文章、昨年、鳥取県の大山町へ行ったとき、みんなの前で発表したっけ。大山町への移住(転住)を考えてから、もう1年が経つのか。大見謝さん、すごく厳しくて、すごく優しい人だった。その厳しさに、会いに行くのをためらっている。でもあの人を見ていたら、きっと見つかるものがありそうな予感はある。
なんてことはさておき。
鷲田清一、小此木啓吾、そして若松英輔。いずれも私の心のささくれをそっと癒やしてくれる書き手。癒やしてくれるというか、ささくれをむしってしまおうとする手を、これ以上傷口を大きくしないように押し留めてくれるというか。
不思議なものだ。落ち込んでいるときに聞くのは陰鬱だったり暴力的な曲なのに、言葉には温かさを求めるとは。
そっか、このところ回復できてないのは言葉が足りてなかったからか。友だちの本屋さんに若松さんの詩集の取り寄せを頼んだ。あれを読めばきっと。たぶん。おそらく。どうだろ。
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