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さよならの儀式

 別れを告げられることに慣れない。自ら去るのであれば、もちろん心は乱れるけれど、決心はついている。残る人たちに(心の中で)あいさつすればいいだけ。
 別れを告げられ、実際にそのときが訪れるまでの間、なんとも居心地の悪い、ふわふわとした時間が流れる。落ち着かないけれどいつもと同じ日常であり、でも確実にカウントダウンは静かに進んでいる。そんな苦しい日々を平気な顔で耐えられるほど、私は強くない。
 大切な時間を記憶に焼き付けねばと思ってみたり、思い出をつくろうとしてみたり。なんてことないいつもと同じ日常が、何よりも大切で意味があると思っているのに、特別な日を演出しようとしてしまう。

 別れには旅立ち以外に死もある。これまで何人かと何匹かを看取ってきた。死から立ち直るには莫大な時間がかかるけれど、別れのつらさをいなすには、実は死の方が簡単だったりする。あくまで私の場合、だが。
 母と叔母は、ともに病気で死んだ。病気がわかってすぐに命の期限を切られた。母のときは正確には告げられなかったけれど、医学書を読みあさり、おおよそ半年、年は越せないだろうと予測。ぴったり半年の命だった。
 叔母は逆に1年くらいと宣告されたのに2年生きた。1年がすぎる頃、もしかしたらもう1年、あるいは細々と5年10年と生きるのではないかという期待が頭をもたげた。奇跡が起こることはないとわかっているのに、もしかしたらと思ってしまう。ともにすごす時間が延びるのはいいことなのだが、でも段々と覚悟が薄れてしまい、急に具合が悪くなったときにショックを受ける。

 ネコたちのときは、割と直線的に死に向かっていった。緩やかに衰えていくもの、急に倒れ、そのまま悪化したもの、病気だと気づいているか気づいていないかによる。唯一、去勢手術の術後に死んだネコがいて、その死だけは未だに受け入れられない。死ぬはずがない手術で、出血をケアしてくれと頼んだのに放置されて死んだ。(思い出すと死にたくなるのでこれ以上は思い出さない)
 私はよい飼い主ではない。だから手厚い看護も受けられず、野良よりましくらいの手のかけ方で死んでいく。運が悪かったと思ってくれ、と心の中で謝る。
 でもだから、母や叔母よりもネコの死は引きずる。そのとき、感情が爆発し、叫び、泣きわめく。死なないでくれ、私を置いていかないでくれとすがるけれど、生命が消えゆく瞳を見ているとあきらめがつく。あとはただ、苦しい時間が短いことを願うだけ。感謝を伝え、抱きしめ、謝る。大切にしなかったことを後悔しながら、置き去りにされた悲しみに飲み込まれる。

 何度も看取ってきたけれど、死はどうしても慣れない。旅立つ別れも慣れることはない。「慣れないこと」が今年のテーマだが、別れに限っては早く慣れたいと願う。
 別れのとき、もう二度と会えない、あるいはそう簡単には会えないのであれば、覚悟を決めるしかない。その人に通じる道にシャッターを下ろし、思い出へと移動させる。そうやって過去にしてしまうことで、別れのさびしさ、悲しさにふたをする。
 ひとりの人との別れは一度でいい。二度も三度も別れの儀式を行うのは、弱い私の心には耐えられない。だったら出会わなければよかったと、出会ったことすら後悔する。
 だから、人が去る前に自分が去りたい。別れを告げられるより前に、心を決めて姿を消したい。置いていかれるのはいやなんだ。



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タナカアキ
ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす