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ヒロイック幻想(あるいはヒロイック・シンドローム、ヒロイック・コンプレックス)

 今日は大好きな友だちが登壇した。2日間で10人以上のスピーカーが登壇するトークイベント。その最初の1コマを友だちが担当した。
 会場は3つあり、うち2会場に登壇するのは、とある冊子で取り上げられた人たち。友だちもそのうちのひとりで、だから登壇することになったのかもしれない。
 その冊子で友だちについて書いたのは私だ。何なら、取材候補として推せんしたのも私。だから友だちから「登壇の依頼が来た」と言われたとき、少なからず私に関係あると思った。何しろトークテーマは、私が推せん文に書いたこと、初稿の内容と同じだったから。(※ 初稿は冊子掲載の第2稿とは別テーマだった)

 1コマ1時間で、最初の20分は自己紹介と言われたけれど、残り40分、何をすればいいか知らされてない。どうすればいいんだろう。首をひねる友だちに、私は「質疑応答にすればいいんじゃない」と言った。すると「いや、それで誰も手をあげなかったときの気まずさたるや!」と顔をしかめる。
 そして本人曰く、自分以外の人たちはそれなりに知られた存在だから聴衆はいるかもしれない。でも自分はよそ者で、大した実績もない、知られてない人間だから誰も来ないに違いない。
「私がいるよ」「え、来るの!?」「当たり前じゃん」

 そんなやりとりをしての今日。
 実は昨日、初めて飲んだ花粉症の薬で副反応(副作用)が出た。顔全体がむくみ、まだらに赤みが出てかゆい。美醜にこだわりはないので、ひどい顔でも全然平気。あちこちかゆいけれど。
 だからというわけではなく。
 朝起きると、はたして私が行く必要があるのだろうか、という問いが浮かんだ。
 もし友だちの回だけ誰も聞きに来る人がいなかったら?
 いたとしても、「質問ある人?」に誰も反応しなかったら?

 もし私が冊子に取り上げたいと推せんしなければ、こんな面倒なことにならなかったと謝ったことがある。でも友だちは「いい機会だから」と断らなかった。
 だから、その場に誰もいなかったり、興味を持って聞く人がいなかったり、質問する人がいなかったりしたときのために、私が行かなきゃ。登壇することになった責任の一端は私にあるんだもん。「自分の話なんて聞きたいい人いないでしょ」って言うけど、そんなことないって見せなきゃ。
 私が行かなきゃ。

「私がやらなきゃ」と思いがち。でも世界にはもっと人がいるから「(私しかいないから)私がやらなきゃ」と思う必要はない。いつだって勝手にヒロイック幻想を抱く。感謝してもらいたいわけじゃなく、先読みして行動してることに気づいてほしいのかもしれない。迷惑な押し付け行為でしかないのに。

 私は昔から「私がやらなきゃ」と思うことが多かった。「私がやらなかったら誰もやらない」「私しか気づいてないから私がやらなきゃ」。
 誰に認められたいわけでも、誰かに感謝されたいわけでもなく。それで存在価値を確認したいわけでもなく。
 ただ「私がやらなきゃ誰もやらない」という思い込み。誰かが気づいて「さすが」と言ってもらえたら最高だけれど、「私が気づいて回避できた」と思うことに意義がある。
 自己満足。自己陶酔。オナニー以外の何物でもない。

 もし誰も聞きに来る人がいなかったとしても、それは依頼を受けた本人と依頼した人の問題で私には関係ない。誰からも質問が出なかったとしても、私のせいじゃない。
 私がすべての責任をとろうとする必要はない。私は小さな小さな存在にすぎない。
 私がやらなくても、誰かがやる。その誰かの方が私よりも優れていて、大きな存在なのだ。だから、私は一歩も二歩も下がって見ていればいい。

 ヒロイック幻想を振り払う朝。
 でも、どんな話をしたのか聞きたかったなぁと思う夜。


余談。 
ずっと傍観者である私が、「私がやらなきゃ」と求められない場面でなぜか急に当事者に割って入ろうとする。一体、なぜ。不思議だ。
ここは少し考える必要があるな。



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