家族から社会へ
年は明けて、2022年。
シェアハウスでの年越しは何が起きるでもなく、何をするでもなく。いつもと変わらず、みんなでごはんをつくってシェアし、だらだらと「何しようか」と言いつつ何もせず、お酒を飲み、それぞれこたつで寝落ち。
そうできる幸せ。そのくらい気をつかわずにいられる場所があること、そんな私を許容してくれる人たちがいること。まさに実家ですごす年越しはこんな感じなのだろう。
一生縁がないと思っていた「家族」がここにいる。「家族」とともにすごす日々は楽で楽しい。
人はひとりじゃ生きていけないと言うけれど、大げさな意味でなければ、ひとりでも生きられる。私はひとりが好きだし、ひとりでさびしいと思わないから、「家族」がいなくても全然平気だ。
でも「家族」がいるのも悪くないと思う。
大晦日、シェアハウスの住民3人は寝ている。遊びに来た大学生は起きている。食べて飲んだものはそのまま、みかんの皮も山積み。
私ともうひとりが寝てしまい、結局麻雀はできなかった。私が寝ている間、パソコンのキーボードの音がしていたが、卒論を書いていたと言う。
思い返しても、自分の”実家”でも、帰省した父方の実家でも、こんな光景はなかった。気を許していなかったのだと思う。
ある人に「そこはぬるま湯」と言われたことがある。福井は全国一ぬるい県で、その中でもうちのシェアハウスはぬるま湯、ベスト・オブ・ぬるま湯だと。
その一因が、衝突をせずに暮らしていること。はっきり言わない、言いたいことも言わない、正面切って言うことがない。
それはそのとおり。たまに私がキレて「うるさい!」「もっと○○した方がいい」「○○しなさいよ」と言うことはあるけれど、基本、うちは自主性に任せている。気づいた人がやる。その姿を見て、自分も次はやろうと思う。命令や義務ではなく、自由意志に基づいた行動を重んじる。
そして深く突っ込んで聞かない。心配したり、疑問だったりしてもぶつけない。それは自分がされたくないことだからじゃないだろうか。自分が話したくなるまで待ってほしいと思う。だから、相手が口を開くまで待つ。時間が経ち、「あのときどうして○○だったの?」と聞くことはあるけれど、渦中にあるときは放置。でもいつでも話を聞く準備はできている。
そういうところもまた「家族」な感じがする。待つ姿勢は、ぬるく見えるけれど、愛でもある。と私は思う。
正直、気づかない人がいて、逆に気づく人がいる。「いいよ、みんなで食べよう」と自分のものを共有する人もいれば、もらうばかりで差し出さない人もいる。気づく人、差し出す人ばかりが損をしているように思って、いやだった時期もあった。
けれど、稼ぎがある人はいろんなものを差し出したり、買って補充してくれたりする。それをありがたく受け取り、自分に余裕があるときにその人にではなく、住民のみんなもしくは誰かに返すことでお互いさまが循環している。
このシェアハウスは「家族」であり、小さな「社会」でもあるのだ。心のよりどころとしての「家族」的な部分と、相互扶助で支え合う「社会」的な部分を兼ね備えた場所。
ぬるま湯、上等。こういう社会が点在し、いつかつながって日本全体がぬるま湯になれば、もっとみんな生きやすくなるんじゃないだろうか。
そんなことをつらつらと思う、お正月明け。
今年は家族から開放され、もう少し大きな枠組みで世界を見られるようになるといいな。「私が」ではなく「私たちが」で語れるように。
いや、どうだろう。それは私の書くべきことではないかも。身の丈よりちょっとだけ背伸びして手の届く範囲のことが、私のテーマな気がする。マスに向けたものは書けない。
誰かひとりに届きますように。そう願いながら、今年も書いていこう。