覚悟がないからどろんする
私は人に必要とされたくない。求められるのは重荷だ。いつだって身軽でいたい。
世の中の半分くらいの人は同じように考えていると思っていた。しかし、身近な3人は真逆。誰かに必要とされる自分でありたいと言う。
おやおや、私は少数派なのか?
前職の編プロでは作成しなかったのだが、基本、どこで働くときも詳細なマニュアルを作成する。最初は自分用のメモで、何がどこにあり、どの順番で作業するかなどを書いていく。そこからわかりやすい手順書に仕上げる。
すべては私が去った後、担当する誰かのために。
仕事を始めたときから、やめるときのことを考えている。誰かに引き継ぐとき、スムーズに移行できるよう準備を整える。
以前、地方新聞社でこまごまとした記事を担当していたとき、このマニュアルが役に立った。
出生、結婚、お悔やみ、首長動静、国会議員動静、求人、交通情報、展覧会紹介、休日当番医、市況、休日の県内スポーツ大会の結果、そして発行された新聞記事のサイト掲載。それらひとつずつ、問い合わせ先や作業の手順、注意事項を記しておく。
その新聞社は全国紙の会社の子会社となっていて、ひとつのビル内に地方紙と全国紙の支社が同居している。紙面も共有している部分があり、片方が作成したものをもう片方でも掲載していた。
分担はときどき変更になり、私が作成していた出生と結婚も全国紙支社の担当になったことがある。自作のマニュアルを渡し、移譲完了。
あるとき担当者が休み、私が代わりに作業することになった。しばらくやっていなかったので、担当者の席にあるマニュアルを見ると私が作成したものだった。フォーマットの変更がなければ、もしかすると今でも同じものが引き継がれているかもしれない。
記者としての能力を問われるような記事ではない。ただデータを集め、その中の不明点を確認し、間違いないように仕立てて定稿するだけ。「記事を書く」というより「作業する」という類の仕事だ。
だからマニュアルさえしっかりつくっておけば、誰にでも引き継げる。
いつだって私は逃げだす前提で物事を始めているのかもしれない。
それは必要とされて「辞めます」と言うことで自分の価値を感じるのが快感だからというわけではなく。ただ退路を確保しておきたいという一心。「いや、マニュアルあるので私がここにいる必要はないかと」と言いたいがため。
だから人に心を開かないし、距離をおくのかもしれない。深いかかわりを持たないことで、いつでも縁を切って姿をくらませるように。
逃げたい。去りたい。どろん。
だけど迷惑はかけたくないから、その後の準備も整えておく。
ちなみに、老親を捨てたときも準備万端。私がいなくてもいいようにすべてから私の名前を消し、書類が行方不明にならないように宛先を変更し、必要なものは本人もしくは妻の子ども、私の姉に送った。
その後、転々としたが私宛以外の郵便物が転送されてくることはなかった。引き継ぎ完了。
仕事においても、人間関係においても、「私じゃなければ」というものは持ちたくない。友だちは一対一の関係だが、友だちという大枠の中のひとり。唯一の友だちと向こうが思っていたら、それはそれとして。
必要とされると、そこに責任が生じる。相手に対する責任、立場に対する責任。
私のような半端もんには荷が重い。軽やかに動けるように、というよりも責任を背負う覚悟がないのかもしれない。「逃げたい。去りたい。どろん。」はそういうことなのだと思う。
誰かに必要とされる経験を重ねたり、子の親となったりして、人は責任を背負っていく。それをすごいと心から思う。自分にはできないことだもの。
私は、やっぱり準備をしておく。いつでも逃げ出せるように。