逃げることは生きること
私が初めてカウンセリングを受けたのは高校生の頃。アレルギー治療の一環で自立(神経)訓練法を行うことになった。その前に3種類ほど心理検査(お遊びのじゃないやつ)を受検。結果、危険な状態にあるとなったらしく、カウンセラーが自立訓練法を行うと同時にカウンセリングをするようになった。
この「危険な状態」というのは、数回セッションをした後で伝えられた。そのままの言葉ではなかったけれど。テストの結果、ものすごくストレスがかかってるみたい。どうにもならない状態に陥ったとき、はい上がれなさそうだから、このままカウンセリングを続けませんか?
高校生だったことと、数回のセッションでストレスの原因が家庭にあると判断したからであろう、私個人に丁寧に説明がされた。テスト結果もすべて見せてもらったので、テストの名前と自分の分類を記憶し、帰りに今はなき勝木書店2階の医学専門書コーナーへ向かう。調べてみると、うつ病にはなりにくいが突然自殺してしまう可能性があるタイプだった。
母親が知っていたかどうかはわからないが、週に一度、アレルギー治療の名目で減感作療法の注射と自律訓練法に通い、カウンセリングを受け始めた。
最初は慎重に受け答えをしていたけれど、「カウンセリングを受ける」と決めてからは出し惜しみすることなく、家庭の内情を話した。でも今と同様、たとえば両親が長らく家庭内別居をしているから離婚すればいいのにとか、考えは述べるけれどそれを自分がどう思っているのかは話さない。
ある日、自律訓練法を行った後、帰る間際にこう言われた。
「逃げなさい」
そのときの私がどんなことを思ったのかは覚えていない。ただ、カウンセラーの顔は覚えている。いつもほがらかに、ちょっとしたことでもよく笑い、雰囲気を明るくしてくれる人が、真顔でまっすぐ私を見つめていた。
「遠くの大学へ進むなりして、家から逃げなさい。本当に苦しいときは逃げていいのよ。我慢することがいいことじゃない。逃げるのもひとつの方法だから。死ぬよりも逃げなさい」
そっか、逃げなきゃ。逃げたくて、私は東京の大学を選んでるのか。
とはいうものの、私はダメ人間の代表なので、死ぬ気で逃げるための勉強をするでもなく、6校すべて高偏差値大学を選び、全滅。幸運なことに、京都の河合塾へと逃げ出せたけれど。
その数年後、東京の大学に進学。母の看病や死がありながらも、それなりに楽しく暮らしていたはずだった。大学を中退したけれど、マーケティングリサーチ会社でのアルバイトは充実していた。株投資は当たりを引き、一口馬主としての最初の1頭もそれなりに活躍し、自分の意外な能力もおもしろがれた。
が、フランスへの留学に挫折後、対人恐怖症を発症。
道を歩けば「刺してやる」「殺してやる」「死ね」という幻聴が聞こえてくる。駅のホームに立つと、背後から誰かに押される不安に苛まれる。振り返っても振り返っても安心できない。最後は、ホームの柱や時刻表の看板に背中を添わせるようになった。
家にいても、誰かが放火する気がする。外に出しているネコを切り刻まれる気がする。夜中ずっと起きていて、朝になると眠る。けれど、家の前を通る学生の足音を聞くと、誰かがドアを叩き破って入ってくる気がする。
毎日、毎時間、不安と恐怖しかない。
耐えきれず、精神科を訪れ、対人恐怖症と診断された。もらった薬を飲むと、体質に合わなかったらしく、猛烈な吐き気と嘔吐、めまいで二度は飲めなかった。
だから、私は逃げた。
人がたくさんいる東京を逃げ出し、人のいない福井へ戻った。そして引きこもること2年、当時飼っていたネコが一晩帰らず、どうしていいかわからずにネコおばさんである叔母に電話。それがきっかけで、再び家の外に出られるように、誰かに会うことができるようになった。
今、私は50歳。18歳のときに「逃げなさい」と言われなければ、今まで生きていなかったかもしれない。ここ数年もそう。親兄弟友だち、すべてから逃げた。だから今、こうして楽しく生きている。
これからも逃げたくなったら、私は逃げる。死ぬまで生きるために、私は逃げる。
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