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軽やかな言葉、重たい言葉

 先日、鳥取へ行ったときのこと。
 テーマに沿った本を選び、みなの前で紹介する会に参加した。このときのテーマは「気になるフレーズが書かれている本」だったように思う。6人がそれぞれいろんな本を持ち寄った。
 話を聞いてるとき、ふと気になることを思い出し、つぶやいた。というか、けっこうな勢いでまくし立てた。ずっと誰かに聞いてほしかったのだと思う。
「シェアハウスの住民で、誰かがなにかを言うと『ヤバイ』ってしか言わないコがいて、その『ヤバイ』が気になって仕方ない。それぞれ別なことを言ってるのに、その返しがすべて『ヤバイ』って、一体なにを思って言ってるのか、全然理解できない」
 会の最後に参加者それぞれが今日の感想を述べるのだが、その中で
「『ヤバイ』が通じる人たちの中では共通認識があって、シチュエーションによって『ヤバイ』の使い分けができているのかもしれない。昔の『おかし』のように」
と隣りの人が言った。ずっともやもやしていたのだが、ああ、私には通じなかったけれど通じる人たちの間ではひとつの言葉でいろんなものを表現していたのかと、それを聞いてすっきりした。

 「ヤバイ」だけでなく、「いいよ」「~しよう」という言葉にも、私は違和感を感じている。
 その昔、私がタナカアキになる前にいた世界では、「いいよ」「~しよう」はそれなりの効力を持っていた。簡単に「いいよ」とか「~しよう」とは口にしなかった。いや、言うけれど、「いいよ、もしコートがとれたら」「スケジュールが空いてたら試合出よう」のように、実際に行う前提で話をしていた気がする。不可能だったり、気が乗らないときは「うーん、ちょっと考えさせて」とか「無理だなぁ」とか可能性が低いことを伝えていた。
 タナカアキになってから、私はよく戸惑う。「いいよ!」「~やりたい!」とあっさり言う人が多いのだ。可能性の有無などおかまいなしに「いいよ」「~しよう」が飛び交う。

 よく言えば、軽やか。悪く言えば、言葉に重みがない。これはこの世界の住人における特徴なのか、20代や30代前半の人たちの共通認識なのか。
 たとえば私が人を誘う。いろいろ状況を見るに、たぶん無理っぽいなーと思いながら誘う。「いいよ」と返事が返ってきて、「え、無理っぽくないか?」と誘った私が訝しむ。直前に確認をとると、忘れてたり、やっぱり無理だったり。
 それがひとりではなく何人もいて、何度も「え?」と思ってきた。ということはやはり、世界か年代かわからないけれど、私以外の人たちの間では「いいよ=いいよではない」という共通認識があるのだと思う。
 なににも縛られず、ふわりふわりと漂うように暮らす人たちだから、明日より先の予定を決めるようなことはしないのかもしれない。約束のような縛りは受け付けないのだろう。
 私にとって「いいよ」「~しよう」は約束だ。だから簡単に「やりたい!」なんてことは言えない。スケジュールや環境など、やれない可能性があるのに「やりたい!」と言うのは無責任だと思うから。誘ってくれた人に迷惑がかからないよう、「できる」と確信があるときだけ「やりたい!」と答える。
 なんてことを言ったら、重たい人と呼ばれるのだろうか。

 言葉の共通認識が一致する世界で暮らしたい。完全に一致することはないし、言葉は受け取り手次第だから誤解が生ずることもある。それでも、言葉の重さが誤差の範囲内であるなら戸惑わずに済む。
 同じ言語を話しているけれど、今は言葉が通じていない気がする。



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